2007年8月29日(水)天国でも働くんですか? ハンドルネーム・山さん

いかがお過ごしでいらっしゃいますか。キリスト改革派教会提供あすへの窓。水曜日のこの時間はBOX190、ラジオを聴いてくださるあなたから寄せられたご質問にお答えするコーナーです。お相手はキリスト改革派教会牧師の山下正雄です。どうぞよろしくお願いします。

それでは早速きょうのご質問を取り上げたいと思います。今週はハンドルネーム山さんからのご質問です。お便りをご紹介します。

「山下先生、こんにちは。いつも番組を楽しませていただいています。
さて、先日友達と話していたら、面白いことを教わりました。その友達が言うには『仕事』っていうのは『仕える事』だっていうんです。確かに仕事という字は仕える事って書きますよね。
その友達は今、転職を考えているらしいのですが、もっと人に仕えるようなことをしたいというのです。今の仕事はお給料はそこそこらしいのですが、お金の問題より仕事の内容がもっと人のためになるようなことを望んでいるそうです。
その話を聞いていて、自分の仕事に対する考え方をちょっと反省させられました。そして、その友達が言うには、『働く』というのは『人を動かす』ことじゃなくて『人が動くこと』つまり、『自分が動くことだ』というのです。もちろん、その友達の今までの歩みを考えると、決して楽な生き方をしてきたというわけではなのです。むしろやっと生活が軌道に乗って、落ち着いてきたところです。子供を育てながら、そんなに冒険をしなくてもいいのにと、ついつい思ってしまう自分です。
そこで、そんなことを考えているうちに、ふと、天国ではどうなんだろうと思ってしまいました。わたしは天国ではゆっくりと休んで、のんびり暮らせるイメージをどことなく持っていました。聖書がいう万物が完成して新しい地と新しい天がもたらされるとき、果たして人はもはや仕事しなくなるのでしょうか。それとも、はやりこの世界と同じように職業をもって働くのが当たり前の世界なのでしょうか。いったいどっちなのでしょうか。
くだらない質問かもしれませんがよろしくお願いします。」

山さん、メールありがとうございました。山さんのお友達の話を聞いていて、「んー、なるほど」と思わずうなってしまいました。バブル経済が崩壊して久しい年月が経ちます。能力主義という新しいシステムが日本の労働市場にも導入されて、格差社会が広がりを見せてきていると耳にします。何でこんな話をいきなりするかと言いますと、先ほどの「『仕事』とは『仕える事』だ」というお友達の言葉が心に引っかかっているからです。
一人一人の仕事が本当の意味で人に仕えることになっていれば、能力主義も格差社会もそんなに悪いものではないような気がするのです。ところが、仕事が人に仕える事ではなくなって、自己の幸福追求の手段になりさがってしまったところに大きな問題があるのではないかと感じているからです。
もちろん、わたしはただの理想主義者ではありませんから、人がただ単に人に仕えるために働くことに幸福を見出すほどお人よしではないことは知っています。確かに自己の幸福追求ということも働く上で大切なモチベーションの一つです。しかし、経済性や利潤だけが高度に求められる働き方にこの社会の行く末の不安を感じているというのも事実です。そう感じている矢先に「『仕事』とは『仕える事』だ」と考えている人が一人でもいることを知ることができて、とても新鮮な思いがしました。きっと山さんも同じ思いになったのではないかと思います。

さて、前置きが長くなってしまいましたが、ご質問の件について、取り上げてみたいと思います。
まず、用語について少し注意が必要だと思いました。「天国」という言葉は、一般には「人が死んだあと行く場所」という意味で使われることが多いと思います。キリスト教会でもそういう意味で素朴にこの用語を使う人もいます。そういう意味での天国について、実は聖書の中にそれほど詳しい記述があるわけではありません。特に今回のご質問にあるように、果たして人は死んでからあとに行く世界でも働くのかどうか、こういう疑問に具体的に答えてくれるような聖書の箇所はありません。
旧約聖書がしばしば死んだ人が行く世界として描く「シェオール」の世界では、人は影のような存在として描かれ、働いて何かを生み出すような、そういう世界としては認識されていません。
他方、新約聖書ではキリストを信じる者の霊魂は死んだ後、キリストのもとへと挙げられ、復活の時までキリストのもとに留まるとかが得られています(フィリピ1:23)。そして、葬儀の時にしばしば朗読される黙示録14章13節の言葉…「書き記せ。『今から後、主に結ばれて死ぬ人は幸いである』と。」”霊”も言う。「然り。彼らは労苦を解かれて、安らぎを得る。その行いが報われるからである」…この言葉から、天国は「労働」というイメージよりも安息や休息の場というイメージが抱かれているのではないかと思います。

しかし、聖書が使う「天国」という言葉、特にイエス・キリストが使う「天国」という言葉は、先ほど述べた「天国」とはまた違った意味で用いられています。それは「神の国」という言葉と同じ意味で用いられています。特に新約聖書が問題にしているのは、キリストによって到来し、キリストによって将来完成される「神の国」のことです。山さんのご質問にでてきた「万物が完成して新しい地と新しい天がもたらされるとき」というのは別言葉でいえば「神の国の完成」ということだと思います。その意味での「天国」で、果たして人はなお仕事をもって働くのかどうか、いったいどうなのでしょう。
残念ながら、このことについても直接その問題を扱っている聖書の箇所はありません。ただ、いくつかのことを総合的に判断するならば、人は神の国でも何もしないでぼーっとしているだけではないと思われます。

というのは、神が最初に天地万物をお造りになったとき、そこははなはだよく作られた世界でした。そして、そこにはエデンの園が置かれ、人が園の管理をするという働きのためにおかれました。つまり、神の国の原型と言っても差し支えのないその世界で、人はやっぱり働いていたのです。この点は十分に注意が必要な点です。

確かに旧約聖書「創世記」は罪を犯し堕落した人間をエデンの園から追放し、額に汗をしてパンを得るという労働の苦しみを与えたと記しています(創世記3:17-19)。しかし、神が罪の罰として与えたのは働く意味の空しさと労苦であって、働くことそのものはエデンの園に人が置かれていたときから与えられていたことなのです(創世記2:15)。ですから、罰としての労働の苦しみや空しさから解放されたとしても、働くことそのものがなくなるとは考えられないのです。

けれども、新しく完成される神の国は、天地創造の世界の再来ではないということも知られています。コリントの信徒への手紙によれば、復活の体はアダムに与えられた肉体そのものが繰り返されるわけではありません。パウロはそれを「霊の体」と呼んだり「朽ちないもの」と呼んだりしています(1コリント15:35-53)。当然その体に必要なものも異なってきます。食糧生産の働きも当然違ったもにになってくるでしょう。
しかし、山さんのお友達がおっしゃったように、仕えることが仕事の意味だとすれば、神の国においてこそ、人は神にも人にも仕える最高の仕事を続けていることと言うことができると思います。