2007年11月21日(水)聖書はどう読むのが正しいですか 神奈川県 T・Kさん

いかがお過ごしでいらっしゃいますか。キリスト改革派教会提供あすへの窓。水曜日のこの時間はBOX190、ラジオを聴いてくださるあなたから寄せられたご質問にお答えするコーナーです。お相手はキリスト改革派教会牧師の山下正雄です。どうぞよろしくお願いします。

それでは早速きょうのご質問を取り上げたいと思います。今週は神奈川県にお住まいのT・K、女性の方からのご質問です。お便りをご紹介します。

「山下先生、いつも素晴しい放送を感謝いたします。
さっそくですが聖書の正しい読み方、学び方について教えてください。
よく教会では「聖書の学び会」といって聖書を読んでグループディスカッションすることがあります。たとえばある箇所について、ある人が「わたしはここはこう言う意味だと思う」というと、他の人は「そういう意味ではなくて、わたしはこうだと思う」と意見を交わしていきます。学ぶ個所によっても違いますが、話し合いによって、みんなの意見が一つの方向にまとまったり、反対に何が正しい結論なのか分からずに終わってしまうこともあります。
自分とは違った読み方の人に出会うということは、ある意味、とても新鮮な驚きを感じることもありますし、とても勉強になることもあります。しかし、何だかこんなので聖書の学びといえるのかな、と疑問に思うこともあります。人がその箇所をどう読んでいるのか、そのことが聖書の学びではないと思うのです。また、何が正しいのかみんなの意見を多数決で決めるものでもないと思います。人が聖書についてなんと言っているかではなくて、やはり聖書自身がなんと言っているのか、そのことに耳を傾けてこそ聖書の学びなのではないでしょうか。
しかし、もう一つの疑問は、聖書が何を語りかけているのかという学びは、ただ学問の世界ではないような気もしています。聖書は神の霊感によって書かれたものなのですから、読む人にも聖霊の働きかけが必要な気がしています。そういう読み方は主観的な読み方だといわれてしまうかもしれませんが、どんなに客観的で学問的な読み方をしても、結局聖書に書かれていることが信じられなければ、聖書を読んだことにはならないのではないでしょうか。そのあたりのことも含めて教えてください。よろしくお願いします。」

T・Kさん、お便りありがとうございました。聖書を正しく読むということは、簡単なようで難しいことです。しかし、難しいようで簡単なことです。
何だかいきなり禅問答のような言い方で申し訳ありません。聖書が簡単だったり難しかったりするのは聖書という書物の性質からどうしても避けて通ることができないように思います。そして、聖書という書物の性質から、この読み方だけが正しいと一くくりでいえない面があるのです。

T・Kさんは「聖書は神の霊感によって書かれたもの」と書いてくださいました。これは新約聖書テモテへの手紙二の3章16節に記されている事柄です。聖書が神の霊感によって本当に書かれた書物であるのかどうかを客観的に証明する手立てはありません。それは聖書自身の自己証言によるものです。しかし、少なくともクリスチャンにとっては聖書が神の霊感によって書かれたものであることは自明のこととして受け入れられています。
さて、聖書が神の霊感によって書かれたものであるということが事実であるとすれば、それを読む人にも何らかの神からの働きかけが無ければ、そこに書かれてある事柄を理解し、受け入れることは難しいといわざるを得ません。もちろん、聖書は人間の言語で記されているのですから、言葉の意味が難しすぎて分からないというレベルの問題はあまりないでしょう。それよりも、神の霊感によって書かれているのですから、言われている内容が人間の思いを超えていて分からないという難しさがあって当然です。
しかし、聖書が書かれた目的は、同じテモテへの手紙二の3章16節によれば「人を教え、戒め、誤りを正し、義に導く訓練をする」ためです。神が最初から人間の理解を超えたものをお与えになったのだとすれば、これは聖書が書かれた目的が意味を失ってしまいます。神は聖霊によって人間の理解を照らし、聖霊によって書かれていることが正しく、また信じるに値するものであることを説得してくださるのです。そういう意味で聖書は人間をはるかに超えた難しい書物ではありえないのです。

さて、聖書には神の霊感によって書かれたという側面がありますが、書かれている文字そのものは人間の言葉です。そういう意味では、先ほども言いましたが、言葉の意味が分からないというレベルの難しさはありません。むしろ、平易な言葉で記されているといってもいいくらいです。しかし、その易しさというのはあくまでも聖書が書かれた時代のその人たちにとっての話です。
聖書に限らず、古い時代の文書というものは、その時代から遠くはなれた時代の人にとっては難しいものです。そもそも言葉というものが時代によって使われ方が違ってくるからです。今の時代の単語の意味で理解して、その時代の文書を正確に読むことはできません。そればかりか、文書自体の背景は時代が隔たれば隔たるほど分かりにくくなってしまいます。物事の意味というのは、それが書かれた状況や歴史的な背景によって大きく左右されるのですから、古代の文書の意味は今のわたしたちにとって分かりにくいのは当たり前のことなのです。

さて、以上のことから、聖書をどう読むことが正しい読み方なのかということを引き出すことができると思います。

まず、聖書が神の霊感によって書かれた啓示の書物であるという点では、聖書は読む側にも聖霊の導きが必要とされています。それは単に学問的に聖書を研究するといったことでカバーできるものではありません。祈りつつ読む姿勢が大切です。それは各人が祈りをもって読むときに到達することのできる読み方です。
ただし、そのことはグループでの聖書研究が意味の無いものであるということはありません。むしろ、グループでの学びによっていっそう理解が深められることもあるのです。
聖霊が一人一人に働きかけて理解を助けてくださっていると信じるならば、その一人一人に与えられた理解に耳を傾けることで、いっそう理解が深まるはずです。
数多くのクリスチャンが聖書を読んで書き記した黙想書の類は、そういう聖書の学びにはとても役に立つはずです。

しかし、聖書が人間の言葉によってある歴史の時点で書き記された書物であるという点に着目するならば、学問的な研究は避けて通ることはできません。書かれた単語の意味や文脈、歴史的な背景、そう言った事柄は祈りによって答えが出てくるものではありません。他の人間的な書物と同じように歴史的批評的解釈が必要です。
そういう意味ではこの分野の研究は専門家の知識が必要です。しかし、翻訳された聖書を読み比べるだけでも聖書の理解に大きな助けとなります。たとえ素人であったとしても、何人かグループで翻訳聖書を読み比べるならば、新しい発見を見出すことができると思います。
その上で、祈りつつ聖書を読み進めるならば、きっと正しい理解に導かれるはずです。