2008年1月2日(水)裕福で幸せなら宗教は不要? 奈良県 H・Kさん

新しい年を迎え、いかがお過ごしでいらっしゃいますか。キリスト改革派教会提供あすへの窓。水曜日のこの時間はBOX190、ラジオを聴いてくださるあなたから寄せられたご質問にお答えするコーナーです。お相手はキリスト改革派教会牧師の山下正雄です。どうぞよろしくお願いします。

それでは早速きょうのご質問を取り上げたいと思います。今週は奈良県にお住まいのH・Kさん、男性の方からのご質問です。お便りをご紹介します。

「いつも放送を聴かせていただいています。
不幸な人は宗教を必要とし、幸福で裕福な人は宗教を必要としないのでしょうか。」

H・Kさん、お便りありがとうございました。大変短い質問ですが、とても深い質問だと思いました。今ラジオを聴いてくださっているあなたは、どんなふうにお考えでしょうか。わたしもたった一行の質問にもかかわらずいろいろ考えさせられました。
まず思ったのは、宗教とは何だろうかということです。これはあまり深く考えすぎてしまうと、それだけで迷路に入り込んでしまいそうです。ここではごく一般的に新興宗教も含めて神道や仏教やキリスト教といった日常生活で具体的に目にする宗教のことを言っているのでしょう。
次に思ったのは裕福とは何か、幸せとは何かという問題です。それも深く考えすぎると、それだけで問題を大きくしてしまいます。どちらも客観的な基準というよりは、その人が自分を裕福だと思うか、幸せだと思うか、という本人の主観的な受け止め方で十分なのだと思います。「満たされている思い」と言い換えてもよいかもしれません。

三番目に思ったことは、果たして宗教と言うものは人々を「満たされた思い」にするためにあるのだろうか、ということです。これは問い始めると、結局振り出しに戻って、宗教とは何かという問題になってしまいます。仮に、宗教は人々を満たされた思いにするためにあるのだとすれば、既に満たされた思いにある人、自分は豊かで幸せだと思っている人には宗教の存在意義がほとんどなくなってしまいます。
一般的に宗教の必要性をほとんど感じない人というのは、すでに満たされた思いで暮らしている人といっても言い過ぎではないでしょう。

少し物事を単純化してしまいましたが、もし、宗教の果たす役割が人を満たされた思いにすることであるとするならば、幸福で裕福な人は宗教の必要がないということができるかもしれません。
そして、宗教だけが人を満たされた思いにするのだとすれば、自分が不幸せだと感じる人には宗教が必要です。

しかし、もし以上のように言い切ってしまうと、それはおかしいという反論がすぐにも聞こえてきそうです。とくにキリスト教の場合、キリスト教の存在意義は人々を満たされた思いにするためにだけある訳ではないからです。キリスト教を信じた結果、平安な思いをあたえられたり、結果として今の生き方に満足感を感じることはあるでしょうけれども、そのこと自体が目的ではないからです。
とすると、ご質問にお答えするには、やはり宗教とは何かという問題を避けて通ることはできなさそうです。そして、この場合、宗教と言うものを、十把一絡げにして論じることはできないように思います。質問を少し変えて「不幸な人はキリスト教を必要とし、幸福で裕福な人はキリスト教を必要としないのでしょうか」とするならば、その答えはこうなることでしょう。

幸福である、裕福であると言うことが客観的であれ、主観的であれ、どちらにしてもキリスト教はすべての人にとって必要です。なぜなら、罪によって支配される世界には、そこからの救いが必要だからです。そして、そのことを成し遂げるのは万物の造り主である聖書の神だけだからです。

もちろん、クリスチャンにとってこの答えは当たり前のことであることは言うまでもありません。クリスチャンであるわたしにとっては、この答えしかありません。
しかし、すべての人にとって必ずしもこの答えは自明のことではないというのも理解できます。この答えがどんなに正しいとしても、この世界が罪によって支配されていると思わない人にとっては、キリスト教の必要性はは何も感じられないでしょう。あるいは仮に罪の事実を認めたとしても、それでも、自分は幸福で満たされていると感じている人には、キリスト教の存在意義を説くことは難しいことです。

ところで、わたしはこの質問を前にしながら、ちょっと変わったことを考えてみました。この質問の「宗教」と言うところに違う文字を入れてみたらどうなるのだろうか、ということです。例えば「不幸な人は学問を必要とし、幸福で裕福な人は学問を必要としないのでしょうか」…こう質問してみたらどうでしょう。あまりにもナンセンスな質問でしょうか。きっと多くの人は幸福であろうが不幸せであろうが、裕福であろうが貧乏であろうが、そんなことには関係無く学問することは人間にとって必要だと答えるかもしれません。
実はこれは宗教にもいえることなのです。幸福であろうが不幸せであろうが、裕福であろうが貧乏であろうが、そんなことには関係無く宗教を持つことは人間にとって必要なことなのです。ところが残念なことに多くの人は宗教の必要性をそういう風には見ていないということなのです。
あるいは「不幸な人はお金を必要とし、幸福で裕福な人はお金を必要としないのでしょうか」…こう質問してみたらどうでしょう。不幸の原因がお金の不足にあるとするのならば、お金は必要でしょう。そしてお金のお陰で裕福で幸せであるとすれば、やっぱりお金は必要だと答えるでしょう。しかし、逆に、不幸の原因がお金の問題ではないとすれば、不幸な人にはお金が必要かどうかを問うことは意味のない質問です。同じように裕福で幸福である理由がお金と関係がないのだとすれば、やはりその人にお金が必要かどうかを尋ねることは意味のない質問です。幸福であれ不幸であれ、必要なお金は必要だし、要らないお金は要らないだけのことです。幸福とお金とを最初から関連付けて質問をする、その質問自体のあり方がおかしいと言うことになるのです。
同じことは宗教についてもいえるのです。不幸の原因が宗教を持たないことにあるとするのならば、宗教は必要でしょう。そして宗教のお陰で裕福で幸せであるとすれば、やっぱり宗教は必要だと答えるでしょう。しかし、逆に、不幸の原因が宗教の問題ではないとすれば、不幸な人には宗教が必要かどうかを問うことは意味のない質問です。同じように裕福で幸福である理由が宗教と関係がないのだとすれば、やはりその人に宗教が必要かどうかを尋ねることは意味のない質問です。幸福であれ不幸であれ、宗教の必要性はそれとは別の問題だからです。それにもかかわらず幸福と宗教とを最初から関連付けて質問をする、その質問自体のあり方がおかしいと言うことになるのです。

こうして考えてみると、宗教の必要性がほんとうはどこにあるのかということについて、ほとんどの人は実は深く考えたことがないのではないかと思うのです。だから、安易に他人の不幸につけこんで宗教に勧誘したり、逆に幸せだから宗教はいらないと決め付けてしまっても、それ以上の疑問が起らないのです。きょうのご質問はそのことをわたしたちに深く問い掛けているのではないかと思いました。