2008年1月16日(水)不幸な事件について 匿名希望さん

いかがお過ごしでいらっしゃいますか。キリスト改革派教会提供あすへの窓。水曜日のこの時間はBOX190、ラジオを聴いてくださるあなたから寄せられたご質問にお答えするコーナーです。お相手はキリスト改革派教会牧師の山下正雄です。どうぞよろしくお願いします。

それでは早速きょうのご質問を取り上げたいと思います。今週は匿名希望の男性の方からのご質問です。お便りをご紹介します。

「ちょっとお尋ねしたいことがあるのですが、世の中にはいろいろと不幸な事件がありますよね。それも全部神様のご計画なのでしょうか。
不幸な事件に巻き込まれた人にキリスト教ではどんな説明をするのですか。例えば犯罪に巻き込まれてなくなった方の遺族に、それは神様のご計画ですと言うのでしょうか?
よろしくお願いします」

お便りありがとうございました。最近の新聞やニュースを見ていると、ほんとうに理不尽としか思えないような事件に巻き込まれて亡くなる方が多いように感じます。一昔前は日本ほど治安の良い国はないと言われるほどに、安全さではどこの国にも負けない国でした。そのために返ってぼんやりとしている日本人は狙われやすいとも言われていた時代もありました。
しかし、この何年かの様子をざっと振り返っただけでも、犯人とはまったく面識も関係もない人たちが事件に巻き込まれてしまうと言うケースをよく見聞きします。また、安全に対する認識もここ数年ずっと高まり、町のあちこちに防犯カメラが据え付けられ、子供たちには居場所を知らせる携帯電話を持たせる家庭も増えているほどです。
何だか物騒で恐ろしい世の中になってきたと誰もが思っているのではないでしょうか。

さて、そんな世の中で、不幸にも事件に巻き込まれてしまう人がいる、そんな悲しい出来事を見聞きして、いったいこれはどうしてだろう、と考えてしまうのは、ご質問を寄せてくださった方ばかりではないだろうと思います。そんな世の中には神も仏もない、と思う人もいれば、神がいるならいったい何のためにそんなことを神はなさるのかと考える人もいることでしょう。
わたしたち人間にとってはその疑問はとても興味深く、知的な好奇心をくすぐる問いであると思います。
しかし、ほんとうにこれは問うに値する質問なのかどうかと言うことを思います。なぜなら、その答えがなんであれ、果たして人はその問いに答えられるのだろうかということを思うからです。
というのは、それがまったくの偶然だとしても、誰がそのこと証明することができるのでしょうか。それが運命や宿命だとしても、誰がそれを証明できるのでしょうか。同じように、それが神の計画であったとしても、神以外の誰がそれを証明できるでしょうか。
そして、だれかがそのことを証明することができたとして、それは果たして人間にとってどんな意味をなすのでしょうか。

たとえば、あらゆる事件は偶然に起きているという事が真実であった場合、悲嘆に暮れている遺族に「これは偶然の出来事ですから仕方のないことです」というのでしょうか。たとえそれが真実であったとしても、そんなことは口にしたりはしないものです。あえて、意味があるとすれば、それは不幸な事件に直面した本人がそう思う場合には、いくらか意味があるかもしれません。

さて、そんなことを頭の片隅におきながら、もう一度ご質問を検討してみたいのですが、先ず最初の質問は世の中の不幸な事件は全部神のご計画なのでしょうか、ということです。非常に抽象的なものの考え方で議論すれば、確かに神はすべてのことをご計画なさいます。「抽象的なものの考え方」と言いましたが、もう少し哲学的な用語で言えば、キリスト教的に物事の第一原因を考えるとすれば、それは神の永遠のご計画によるものなのです。
しかし、それは第二原因である人間の自由意志と責任を無意味なものにすると言う意味では決してないのです。人間の責任、特にこの場合には事件を起こした人間の責任を神に押し付ける仕方で議論の結論を考えるべきではありません。いかなる意味でも人間の責任をうやむやにする結論は聖書の教えに反するからです。しかし、神の計画と人間の自由意志や責任をどう調和させるのかという問題は決して人間の頭の中では理解可能なものではないのです。ただ、ひたすら聖書が教え説くがままにそれを受け入れるしかないのです。

しかし、そのことと二番目の質問とがどう結びつくのかに関してはさらに注意が必要です。二番目の質問は「不幸な事件に巻き込まれた人にキリスト教ではどんな説明をするのですか」というものでした。

まず、先ほど見てきた第一原因ですが、第一原因を考える時には、人間にはそれはあくまでも抽象的な一般的な事柄として理解されるに過ぎない事柄なのです。人間にとっては、あの時のこの事件の詳細について、神はこのように事細かく計画された、というような具体的な事柄を言いうることではないのです。したがって、個々の事件がどのように計画され、どのような意味を持つのか、ということについて詮索することは人間には許されないことなのです。その点について、「すべては神の計画である」と言い放ってしまうことは、誤解を与えるだけに終わってしまうのです。
ただクリスチャンにとってはすべてが神の計画であるとしても、その計画は「すべての事を益としてくださる」という神の約束が慰めとなりうるのです。従って、万事を益とそて下さる神への信頼のないところには、神の計画を口にすることは何の意味もないことといわざるを得ません。

さて「不幸な事件に巻き込まれた人にキリスト教ではどんな説明をするのですか」ということに関してですが、これはキリスト教でも他の宗教でも、今悲しみのうちにある人にそのようなことを説明するものなのでしょうか。むしろ、その問いの立て方自体がわたしにとっては非人間的なように感じられます。
確かに、人は理不尽な出来事に出会ったとき「なぜ?」ということばを何度も発しますが、それは答えを求めてというよりも、慰めや励ましを求めてではないでしょうか。慰めや励ましがなければ真理を受け止めることもできないはずです。
知的興味だけでこの問題を取り上げるとすれば、その答えがどんなものであったとしても、聞く人には絶えられない結論になってしまうと思うのです。
もし、理不尽な事件に直面している人を前にしてわたしたちが問うことができることがあるとすれば、「なぜ神はこのようなことを計画されたのか」と言うことではなく、むしろ「わたしたちはその人を慰め励ますために何ができるのか」ということであるべきではないでしょうか。