2008年1月23日(水)キリスト教は必要ですか ハンドルネーム Aさん

いかがお過ごしでいらっしゃいますか。キリスト改革派教会提供あすへの窓。水曜日のこの時間はBOX190、ラジオを聴いてくださるあなたから寄せられたご質問にお答えするコーナーです。お相手はキリスト改革派教会牧師の山下正雄です。どうぞよろしくお願いします。

それでは早速きょうのご質問を取り上げたいと思います。今週はハンドルネームAさんからのご質問です。お便りをご紹介します。

「はじめまして。さっそくの質問なのですが、なぜキリスト教は必要なのでしょうか。キリスト教以外の宗教ではダメなのでしょうか。あるいは宗教そのものを持たないという生き方ではいけないのでしょうか。
わたし自身、特別に信じるものがあるわけではありませんが、それで何一つ不自由を感じません。それは嫌なことの一つや二つは人間としてあることは認めます、しかし、キリスト教を信じたからといってそれがなくなるとも思えませんし、全部なくなってしまった方がいいとも思いません。
それと、困難を克服するためにキリスト教を信じるというのであれば、カウンセリングを受けるのと何が違うのでしょうか。
何かあればカウンセリングを受けて困難を克服し、今を楽しいと感じることができれば、人間、それで十分なのではありませんか?
失礼な質問とは思いますが、日ごろ考えていることをお尋ねいたします。よろしくお願いします。」

Aさん、お便りありがとうございました。ご質問いただいた問題は、いろいろな人が感じていることではないかと思います。特にキリスト教は教えを伝えるという点で、とても熱心な宗教の一つです。信じることを積極的に勧めるという点で人の心の中に立ち入ってくる宗教です。
一般的にいって、人の心の中まで立ち入ってくるものに対して、それを快く受け止めることができないというのは人間として当然あることだと思います。何でもどうぞお入りください、というのでは、その人自身、何の考えもなく生きているのも同然です。そういう意味で、Aさんがキリスト教の必要性について疑問を抱いてくださったことは、十分に理解できることがらです。

さて、何かのセールスを考えてみると、それを買うか買わないかはお客さんの自由です。その人にとって必要性を感じることができれば、それは買うに値するものです。しかし、必要だと感じられなければ、どんなに粘ったところで買ってもらうことはできません。ですから、セールスマンはその諸品の価値や必要性を一生懸命説明し、説得するわけです。
もし、それと同じようなレベルでキリスト教のセールスを望んでいらっしゃるのだとすれば、これは大変つまらないものになってしまうと思うのです。それは結局のところ、信じた見返りは何か、ということを求めることに終始してしまう話です。言い換えれば、ご利益がなければ信じるに値しないという結論が先にあるので、そこから出発して宗教を信じる価値や必要性を説明し、理解しようとする発想が生まれてきてしまうのです。

ちょっと矛盾しているかもしれませんが、キリスト教が必要であるということを理解するためには、なぜキリスト教が必要であるのかという発想そのものを出発点において考えてはいけないのです。それでは答えが見つからないのです。なぜなら、わたしたちにとっての必要性ばかりを追いかけていると、物事の全体を見落としてしまうからです。

たとえば、人と人との出会いをイメージとして考えてみてください。わたしたちは人をモノとして考えたりは決してしないものです。ある商品が必要であるかないかを見極めるように、人に対しても、その人が自分にとって必要であるかないかを最初から意識して振り分けるものでしょうか。普通、そんな人との出会い方はしないものです。その人と付き合ってみて、初めてその人の人間性に触れ、その人との対話や交わりを通してたくさんのことを学んでいくものではないでしょうか。必要性というチェックリストで最初から人を振り分けた上でその人を知ることは本末転倒なのです。
それと同じように、キリスト教の必要性という切り口からキリスト教に触れようとすれば、キリスト教について何一つ触れることはできないままで終わってしまうのです。必要性というのは、あくまで人間の側の一つの判断基準に過ぎない上に、それは百人いれば百人の必要性があるからです。

ですから、キリスト教はわたしたちにとって本当に必要であるかないかを考える前に、キリスト教とは何を教え、何を信じているのか、また、キリスト教が信じている神とはどんなお方であるのか、そのことをキリスト教が教えるがままにまず聞くことが大切なのではないかと思います。
その全体を聞かないうちに、なぜキリスト教が必要なのかを断片的に聞いたとしても、それを理解することはとても難しいと思うのです。

繰り返しになりますが、自分自身に置き換えて考えてみればそのことは明らかなことです。たとえば、Aさん自身が必要な存在であるのかという大変ぶしつけなアプローチをしたとします。例えばBさんは語学に得意な人を必要としているので、Aさんが語学が得意かどうかでAさんの必要性をみます。残念ながらBさんの基準にはAさんは達しなかったようです。Cさも同じように計算の分野でAさんが必要な人間かどうかを判断します。はやり残念ながらCさんにとってAさんは必要な存在ではなかったようです。さらにDさんは視力の優れた人を必要としているのですが、そのDさんにもAさんは必要ではなかったようです。従ってAさんは誰にも必要とされない人間ですと結論づけることは正しいでしょうか。そんなことはないはずです。仮にBさんから始まってXさんまで全員がAさんの必要性を見出せなかったとしても、それでもAさんは必要ないと結論付けることはできないはずです。
あるいは、このことを通してAさんについての正しい理解が深まったでしょうか。深まるどころか、Aさんに対する知識や理解はゆがめられてしまう一方です。ある人にとっての必要性という観点だけから断片的に物事を理解しようとしても、結局は全体像をつかめないままに歪んだ部分像からその人を判断を下してしまうことになるのです。

ですから、Aさんがキリスト教の必要性について本当に知りたいと思うのでしたら、どうぞ、必要性という断片的なものの見方を一度捨て去って、聖書をじっくりと読んでみてください。そうすれば、もっとキリスト教の全体像を見渡すことができ、その上で、キリスト教を信じる必要があるのかを考えることができるようになると確信いたします。