2008年4月9日(水)祈る言葉さえ、失くしました 大分県 sakuraさん

いかがお過ごしでいらっしゃいますか。キリスト改革派教会提供あすへの窓。水曜日のこの時間はBOX190、ラジオを聴いてくださるあなたから寄せられたご質問にお答えするコーナーです。お相手はキリスト改革派教会牧師の山下正雄です。どうぞよろしくお願いします。

それでは早速きょうのご質問を取り上げたいと思います。今週は大分県にお住まいのsakuraさん、女性の方からのご質問です。お便りをご紹介します。

「山下先生、お久しぶりです。突然ですが『喝采』という歌をご存知ですか。昔、ちあきなおみさんが歌い、去年徳永英明さんが限定版でカバーして話題になった歌です。その歌詞に『ひなびた町の 昼下がり 教会の前に たたずみ 喪服の わたしは 祈る言葉さえ なくしてた』とあるのですが今、私はそういう状態なのです。1年前、酷く精神的に行き詰まり混乱して2ヶ月近く入院しました。私の心は一度死んでしまいました。
このところ回復してきたのですが、悲しみが大きすぎて、神さまに祈る言葉がないのです。癒して欲しいとも、なぜですか?と問いたいとも思えないのです。生きたいという気持ちが乏しいのかもしれません。イメージでの表現ですが、1年前に死んでしまった私、そして祈る言葉さえ失くして、教会の前に喪服でたたずむ現在の私。
こんな私に、アドバイスをください。」

sakuraさん、ご無沙汰しています。お久しぶりのメールありがとうございました。メールを読ませていただいて、ほんとうに今まで辛い日々を過ごしていらっしゃったのだということが感じられました。ご自分の状態を「私の心は一度死んでしまいました」と表現するのはよほどのことだと思います。それは自分の方からは何も働きかけることができないということなのでしょうか。あるいは何か外からsakuraさんに働きかけても、反応することができないということなのでしょうか。いずれにしても、そのように「死」という言葉を使ってしか自分の心の状態を表現することができないというのは、わたしにとってはほんとうに衝撃的なことです。
ただ、今はほんの少しでもその気持ちを言い表してくださるのですから、まったく心が死んでしまわれたのではないと信じたい思いです。

さて、今のsakuraさんの心の状態は、「悲しみが大きすぎて、神さまに祈る言葉がない」ということなのですね。これもまたどれほど辛いことかと思いました。
考えてもみれば、旧約聖書詩編の中には悲しみや苦しみの中から叫ぶように神に祈る言葉が記された詩が数多くあります。どんな言葉であれ自分から祈ることができるというだけ、今のsakuraさんからみればまだ幸せなことなのかもしれません。

祈る言葉を失ったsakuraさんは、そんなご自分の姿のことを、昔流行った『喝采』の歌詞に登場する人物と重ね合わせていらっしゃいます。わたしはそんなsakuraさんからいただいたメールのタイトル「祈る言葉さえ、失くしました」という言葉を見て、ある聖書の言葉を思い浮かべてしまいました。
その言葉というのはローマの信徒への手紙8章26節の言葉です。

「同様に、”霊”も弱いわたしたちを助けてくださいます。わたしたちはどう祈るべきかを知りませんが、”霊”自らが、言葉に表せないうめきをもって執り成してくださるからです。」

この場合の「霊」というのは神の霊、聖霊のことと理解してよいでしょう。聖霊がわたしたちを助けてくださり、聖霊が何をどう祈ったらよいのかわたしたちのために、言葉にならないうめきをもって執り成してくださっているというのです。
考えてもみれば、祈りの言葉がすらすらと口をついて出てくるからと言って、その祈りがほんとうに信仰深く意味がある祈りであるとは限らないかもしれないと思うことがあります。常日頃している祈りというのは、表現も、言葉も、言い回しも決まってきて、深く考える間もなく、すらすらと言葉が出てきてしまいます。逆にあまり祈りなれていない課題について祈ろうとすると、なかなか言葉が繋がらなくて、考えながら言葉を紡いで祈りますから、たどたどしい祈りになってしまいます。まして、何をどう祈ったらよいのか、それすらもわからないほど大きな困難に直面したら、祈る言葉を失ってしまうのは当たり前のことなのかもしれないと思います。
しかし、そうして何をどう祈ったらよいのか分からないわたしたちの弱さを、神は決して信仰がたりないとか、もっと頑張りなさいとかおっしゃったりはせずに、御霊がわたしたちに代わって執り成してくださるというのです。しかも、その御霊の執り成しでさえ、パウロは「明瞭な言葉をもって」とは言わずに「言葉にならないうめきをもって」といっているのです。
この執り成してくださる聖霊に謙虚に信頼して身を委ねて行くこと、そのことが大切なのではないかと思います。

もう一つ、このことを話しながら思い浮かべたことがあります。先ほど、詩編の中の祈りに触れましたが、詩編の中にはほんとうにどうすることもできない苦しみに直面して、叫ぶような祈りの言葉をつづったものがいくつも見られます。ところが、その叫ぶような祈りも通り越して、ただただ沈黙することをよしとする作者の姿が描かれることもあります。
例えば、詩編62編6節ではこう書かれています。

「わたしの魂よ、沈黙して、ただ神に向かえ。 神にのみ、わたしは希望をおいている」

この詩編の作者が直面しているのは、人が身を起こせば押し倒そうと謀り、常に欺こうとして、口先で祝福し、腹の底で呪う、そういう悪意に満ちた敵です。常にこうした敵に悩まされ、苦しめられるときにこの作者の取った行動は何かというと、沈黙して神に向かうということでした。

ただsakuraさんの場合は、祈る言葉を失って、沈黙するしかないという状況には共感を覚えることができるとしても、神に向かうという行動に出れるほど元気がないのかもしれないですね。たとえそうであったとしても、神はわたしたちの必要をよくご存じですから、祈る言葉をなくしたわたしたちの心の内にある深い願いに耳を傾けてくださいます。

どうか、聖霊なる神様が言葉にならないうめきをもって、sakuraさんを執り成してくださるようにと祈ります。