2008年5月21日(水)『礼拝』は「守る?」「捧げる?」「与る?」 もーさん

いかがお過ごしでいらっしゃいますか。キリスト改革派教会提供あすへの窓。水曜日のこの時間はBOX190、ラジオを聴いてくださるあなたから寄せられたご質問にお答えするコーナーです。お相手はキリスト改革派教会牧師の山下正雄です。どうぞよろしくお願いします。

それでは早速きょうのご質問を取り上げたいと思います。今週はハンドルネームもーさん、男性の方からのご質問です。お便りをご紹介します。

「山下先生、こんにちは。はじめてメールいたします。よろしくお願いします。
さて、つまらない質問かもしれませんが、それぞれのコミュニティにはその世界独自の言い回しというのでしょうか、そういうものがあると思います。
たとえば、パソコンの世界ですと『キーボードを叩く』という人もいれば、『キーボードを打つ』と言う人もいます。音楽の世界なら『キーボードを弾く』とか『キーボードを演奏する』でしょうか。
キリスト教の世界も教派や教会によって同じことでも言い回しが違うと思うことがあります。
例えば、聖餐式は『守る』ものでしょうか、それとも『執り行う』ものでしょうか。あるいは『捧げる』ものでしょうか。
そこできょう質問したいのは、『礼拝』というものは『守る』ものなのでしょうか。それとも『捧げる』ものなのでしょうか。それとも『与る』ものなのでしょうか。聖書の世界では、そのあたり、どんな表現になっているのかと興味を持ちましたので、つまらない質問ですがさせていただきました。よろしくお願いします。」

もーさん、お便りありがとうございました。お便りを読ませていただいて、普段何気なく使っている言葉も、よく考えてみると、果たしてそれでいいのかなと思わされました。
もーさんのお便りにもありましたが、日本のプロテスタント教会で「礼拝」にまつわる表現と言えば「礼拝を守る」「礼拝に行く」「礼拝する」ぐらいでしょうか。あるいは「礼拝にあずかる」「礼拝に出席する」という言い方も耳にします。カトリック教会の人は司祭が「ミサをたてる」のに対して、信徒は「ミサにあずかる」という表現を使っているようです。「ミサを捧げる」という表現も耳にします。もっとも、カトリック教会のミサの中心は、プロテスタント教会の聖餐式にあたるものですから、プロテスタント教会も聖餐式に関しては、「聖餐式を執り行う」とか「聖餐式にあずかる」などの表現があります。しかし、「聖餐式をたてる」「聖餐式を捧げる」という表現はわたしの知る限り使いません。

さて、聖書の中で「礼拝」を巡る用語はどう表現されているのでしょうか。日本語の新共同訳聖書で「礼拝」と翻訳されている言葉は。旧約聖書のヘブライ語にしろ、新約聖書のギリシャ語にしろ、大きく分けて二つの言葉に分けて考えることができます。

その一つは、体の姿勢と関係したものです。「ひれ伏す」とか「ひざまずく」という言葉から出てきたものです。
例えば旧約聖書では創世記の22章にアブラハムが息子のイサクを捧げようとする場面が出てきます。途中まで僕たちを連れ添って出かけるのですが、その場所が近づくと、アブラハムは僕たちにこう言います。

「お前たちは、ろばと一緒にここで待っていなさい。わたしと息子はあそこへ行って、礼拝をして、また戻ってくる。」(創世記22:5)

ここで使われている「礼拝をして」と言う言葉は、文脈によっては「ひれ伏す」と訳されることもある言葉です。例えば王の前に家臣がひれ伏したりする場合です(歴代誌下24:17など)。

つまり、礼拝とは外面的な行為からすれば、それは神の前にひざまずいたり、ひれ伏したりすることなのです。

同じように新約聖書にも体の姿勢と関係した「礼拝」を表す言葉があります。

イエス・キリストがサマリアの地に立ち寄られたとき、そこで出会った女性がキリストにこう言いました。

「わたしどもの先祖はこの山で礼拝しましたが、あなたがたは、礼拝すべき場所はエルサレムにあると言っています。」(ヨハネ4:20)

この場合の「礼拝する」と言う言葉のもともとの意味も、ひれ伏したり、ひざまずいたりすることです。

考えてもみれば、「礼拝」と言う言葉の「礼」も「拝」も、頭を垂れたりお辞儀したりする仕草を示す言葉です。ですから、日本語の礼拝と言う言葉も、ヘブライ語やギリシャ語と同じように礼拝行為の仕草から「礼拝」ができていると言ってよいでしょう。

さて、ヘブライ語やギリシア語には、「礼拝」を表すもう一つのグループの言葉があります。それは「仕える」とか「奉仕をする」という意味の言葉です。
例えば、ヨシュア記24章21節でイスラエルの民はヨシュアに「いいえ、わたしたちは主を礼拝します」と答えます。その場合の「礼拝します」と訳された言葉は、前後の箇所では「仕える」と翻訳されている言葉です。

聖書の世界では体の姿勢から言えば、礼拝とは神の前にひれ伏すことですが、心の態度からいえば、それは神に僕として仕えることです。この点は礼拝ということを考える時にとても大切なポイントです。

英語で礼拝のことを「サービス」というのはご存知だと思います。クリスマスイブのときに蝋燭に火を灯して行う礼拝をキャンドルサービスと言います。日曜日の朝に行なわれる礼拝をモーニングサービスと言います。日本では通勤時間帯に安く朝食を提供することをモーニングサービスと言いますが、英語でモーニングサービスと言えば「朝の礼拝」のことです。
サービスとはもともとの意味は「仕える」「奉仕する」という意味ですから、礼拝の本質は神への奉仕ということなのです。

英語で「礼拝」を表すもう一つの格式ばった言い方にリタージーという言葉もあります。普通日本語では「典礼」と訳されたりします。この言葉はギリシア語のレイトゥールギアと言う言葉から来た言葉で、もともとの意味はやはり「仕える」という意味です。ここでも、礼拝の本質は神に仕えることである考えられているのです。

日本語の「礼拝」を表す言葉に「仕える」という意味合いが含まれていないのはとても残念な気がします。

ところで、日本のプロテスタント教会では「礼拝を守る」という言い方がなされますが、これは旧約聖書に出てくる「安息日を守る」(出エジプト31:13)という表現から来ているのではないかと思います。