2008年7月16日(水)お金も愛も 長崎県 T・Mさん

いかがお過ごしでいらっしゃいますか。キリスト改革派教会提供あすへの窓。水曜日のこの時間はBOX190、ラジオを聴いてくださるあなたから寄せられたご質問にお答えするコーナーです。お相手はキリスト改革派教会牧師の山下正雄です。どうぞよろしくお願いします。

それでは早速きょうのご質問を取り上げたいと思います。今週は長崎県にお住まいのT・Mさん、女性の方からのご質問です。前回ご紹介したお便りの中の、もう一つのご質問に関わる部分です。

「今、『あすかとあいのバイブル百貨店』を読んでいますが、この人たちはセールスで世界一でありつつ誰に対しても伝道していて感心しています。またしっかりとした信仰も持っていて信仰によって生きているまさに理想的な人たちです。
また、アメリカのウォーレン・バフェットさんも世界一のお金持ちですがクリスチャンで85%を寄付しているすごい人です。6兆円の資産を持ちつつ謙虚にお金は慈善事業に使われる運命にあるといえるカッコイイ人です。能力と愛情のあるクリスチャンのカガミのような人です。この人の生き方は正しいと思います。
聖書の中でもダビデやソロモンが豊かに恵まれ祝福されているように『お金』か『愛』かではなくて両方に恵まれたいと思います。神様とはそういうお方だと思うのですがいかがでしょうか。」

T・Mさん、前回に引き続きお便りをご紹介させていただきました。お便りを読ませていただいて、色々なことが頭を駆け巡りました。
まずはお便りの一番最後の文章…「聖書の中でもダビデやソロモンが豊かに恵まれ祝福されているように『お金』か『愛』かではなくて両方に恵まれたいと思います。神様とはそういうお方だと思うのですがいかがでしょうか。」…このことについて、真っ先に思ったことはこうです。
確かに聖書は神について「地とそこに満ちるもの 世界とそこに住むものは、主のもの」(詩編24:1)と記しています。そういう意味では、この世のどんな人間よりも聖書の神が最も資産家であることは間違いありません。その上、聖書の神は恵みと慈しみに富んだお方です(詩編104編他)。きょうは生えていて明日は炉に投げ込まれるような野の花に対してさえも、最高にきれいな装いを与えるほど物惜しみをしないお方です(マタイ6:30)。
T・Mさんが書いてくださったとおり、神はあらゆる富にも愛にも満ち溢れているお方です。
そして、聖書は人間が富に豊かになることに対して決して否定的ではありません。むしろ、旧約聖書申命記に記されているとおり、神に従うことへの報いとして豊かな祝福が約束されているのです(申命記28:1-14)。これは単に精神的な意味での祝福ばかりではなく、物質的な意味での祝福も含まれています。その具体的な例は、挙げてくださったようにダビデやソロモンがまさにそうです。

しかし、そうは言いながらも、イエス様はどうだったのだろうか。パウロはどうだったのだろうかという思いも頭を駆け巡りました。
確かに神の子としてのイエス・キリストについて聖書はこう記しています。

「御子はすべてのものよりも先におられ、すべてのものは御子によって支えられています」(コロサイ1:17)
「神は、御心のままに、満ちあふれるものを余すところなく御子の内に宿らせ(ました)」(コロサイ1:19)。

そういう意味では神の子としてのキリストもまたあらゆる意味で最も豊かなお方といえるでしょう。しかし、そのキリストについて聖書はこうも証言しているのです。

「キリストは、神の身分でありながら、神と等しい者であることに固執しようとは思わず、かえって自分を無にして、僕の身分になり、人間と同じ者になられました。人間の姿で現れ、へりくだって、死に至るまで、それも十字架の死に至るまで従順でした。」(フィリピ2:6-8)

地上でのイエス・キリストは決してお金持ちではありませんでしたし、資産家のような生き方をなさいませんでした。それどころか、「貧しい人々は幸いである」(ルカ6:20)とおっしゃるのです。

パウロもまた同じです。キリスト教の伝道者となったパウロは決して資産家ではありませんでした。そのパウロはこう記しています。

「わたしは、自分の置かれた境遇に満足することを習い覚えたのです。貧しく暮らすすべも、豊かに暮らすすべも知っています。満腹していても、空腹であっても、物が有り余っていても不足していても、いついかなる場合にも対処する秘訣を授かっています。わたしを強めてくださる方のお陰で、わたしにはすべてが可能です。」(フィリピ4:11-13)

ですから、「富も愛も」両方に豊かになる生方だけがキリスト教的に素晴らしい生き方だとは、両手を挙げて賛成することはできません。

しかし、先ほども言いましたが、財産に祝福を受けてますます豊かになることが、聖書の教えでは決して後ろめたいことのようには描かれていないのも事実です。むしろ、それは神からの祝福として感謝して受け止めるべきことなのです。
ただし、その豊かさをどう用いるか、そこに知恵が求められることは言うまでもありません。
富が増し加えられたならば、それに伴う愛もまし加わることが望ましいのです。もともとあらゆる富は神に属するものなのですから、その富に与ることができたのは神の恵みと祝福以外の何ものでもありません。神からいただいた恵みと祝福は分かち合うためにあるものです。

イエス・キリストが話してくださったたとえ話に「愚かな金持ち」の話があります(ルカ12:16-21)。この金持ちは豊作で得た莫大な富を自分の倉に抱え込み、命の保証を得たかのように思い込んでしまったのです。彼の心には神からの祝福を分け与えると言う発想すらなかったのです。
「自分のために富を積んでも、神の前に豊かにならない者はこのとおりだ」と言われています。

富は自分と他者のために使ってこそ意味のあるものです。自分のためにだけ富を蓄え、まして、その蓄えが自分の寿命を長くしてくれると思い込むならば、それはとんでもない間違いなのです。

最後に一つだけ思うことがあるのですが、「貧しい人たちを助けるために、わたしをお金持ちにしてください」と祈り願うことは正しいことなのだろうか、ということです。何か本末が転倒しているように思うのです。
今、自分がなすべき仕事が何であるのかを知って、そのなすべきことを祝福して欲しいと願うことがまず最初ではないかと思うのです。そして、なすべきことをなして得た富をどのように賢く用いるのか、それにふさわしい愛と知恵ことを次に願うべきだと思うのです。