2008年9月3日(水)イエス・キリストは本当に神の子? ハンドルネーム・tadaさん

いかがお過ごしでいらっしゃいますか。キリスト改革派教会提供あすへの窓。水曜日のこの時間はBOX190、ラジオを聴いてくださるあなたから寄せられたご質問にお答えするコーナーです。お相手はキリスト改革派教会牧師の山下正雄です。どうぞよろしくお願いします。


それでは早速きょうのご質問を取り上げたいと思います。今週はハンドルネーム・tadaさんからのご質問です。お便りをご紹介します。

「イエス・キリストは本当に神の子でしょうか? これが信じられれば、信仰を受け入れることができます。教えてください本当のことを。」

メールでいただいたとても短いご質問ですが、tadaさんお便りありがとうございました。とても短いご質問ですが、内容はとても深くて、簡単には答えられないような問題です。

まず、キリスト教の一般論からいうと、キリスト教の教えのほとんどすべては聖書自身が自分について語っている自己証言に基づいています。そして聖書は信仰と生活についての誤りのない書物ですから、というのも聖書自身がそう言っているのですから、聖書に書かれていることは間違いないと信じているわけです。もちろん、そのように聖書に信頼するのは、聖書の権威がその究極の著者である神の権威によっているからです。つまり、聖書に書かれていることは神の権威によっているのですから、誤りはないのです。

もし、今述べたことが受け容れられるのであれば、きっとイエス・キリストが神の子であることはそれ以上に受け容れがたいことではないはずです。なぜなら誤りなき聖書が「イエス・キリストは神の子である」と証言しているからです。たとえばルカによる福音書1章35節には天使ガブリエルがマリアに伝えた言葉として、こう記されています。

「聖霊があなたに降り、いと高き方の力があなたを包む。だから、生まれる子は聖なる者、神の子と呼ばれる。」

福音書ではイエス・キリスト自身もご自分が神の子であることを証言していますし(ヨハネ10:36)、悪霊たちでさえもイエスが神の子であると証言しています(マルコ3:11)。

さて、以上述べてきた事柄に対して、きっとこういう反論があるだろうと思います。自分が自分について語っていることほど信頼できないものはないのではないか。なぜなら、いくらでも自分についてうそを並べることができるからです。ですから、自分についての証言は、客観的な証拠と突き合わせて矛盾がないのでなければ、信用できないというのです。

これについては、二つのことを言わなければならないと思います。先ず一つのことは、例えば「わたしは誰の子か?」ということを考えてみたらどうでしょうか。わたしは法律的にはわたしの戸籍上の父と母の子です。法律的にはそれで間違いありません。また、わたしが大人になって独立するまで、両親とはずっと一緒に暮らして来ましたから、戸籍で確認するまでもなくわたしは父と母の子であるとずっと信じてきました。
しかし、自己証言ほどあてにならないものはないとすれば、わたしがほんとうは誰の子であるのかを証明する手段はほとんど残されていません。DNA鑑定でもしない限り確かなことはわからないのです。その鑑定がない以上、わたしが誰の子であるのかは分からないとすべきなのでしょうか。
確かに、厳密に言えばその通りでしょう。しかし、現実には戸籍に載っている父や母の子だと誰もがそう信じているはずですし、普通はそれ以上の調査をあえてしないものです。
そうだとすれば、聖書がそうだと語っている以上のことを普通はあえてしないものだと思うのです、聖書に「イエス・キリストは神の子である」と書かれているので、そのとおりに受け取る他はないのです。

もう一つのことは、なるほど自分が自分について証言していることほどあてにならないというのは、ある面ではそのとおりです。他の証拠と組み合わせて検証して、もっとも蓋然性の高い事柄を信用すべきです。先ほどの例で言えば、わたしが戸籍上の父母の本当の子である蓋然性は、DNA鑑定をするまでもなく相当高いだろうと思っています。それはどことなく両親に似たところがいくつもあるからです。もちろん百パーセント確実であるかどうかは断言できません。
しかし、もしわたしが、「実はわたしはネコの子です」と自己証言したとすれば、おそらく誰もそれを信用するはずがありません。なぜなら、どんなに頑張ってもネコの特徴をわたしの中に見出すことができないからです。

では、イエス・キリストにこれを当てはめて考えてみたらどうでしょうか。たちどころに二つの壁にぶつかってしまいます。一つは「神の特徴とは何か」という問題です。神を見たことがない者たちが、神について定義したりその特徴を述べたりすることはできません。もちろん、聖書が神について語っていることをイエスに当てはめて考えるということはできるでしょう。しかし、聖書の自己証言について検証しているのに、その検証を聖書自身を基準とするのでは意味がありません。そうなると、「イエスは神の子である」という場合の「神の特徴」を何によって検証するのかという壁にぶつかってしまいます。

もう一つの壁は、聖書によれば、イエス・キリストは「神の子」であるとも言われていますが、同時に「人」であるといわれています(1テモテ2:5)。ですから、地上にお生まれになったイエスを聖書が描く時に、あるところではまったく人間と同じように描かれているということです。例えば、お腹が空けば食べ物を食べ、悲しみには涙を流し、必要な時には睡眠をとりもしたということです。もし、都合よくそういう特徴ばかりを聖書から拾い上げていけば、イエスは紛れもなく人間ということになるでしょう。しかし、聖書が語っていることを検証しようとしているのですから、その部分だけを都合よく聖書からひろいあげてくるというのは、検証の仕方としては公平とはいえません。

以上のように言ってしまうと、それでは結局「イエスが神の子である」ということは客観的に証明できないのではないか、ということになるのでしょうか。
残念ですが、聖書以外の証拠によってそれを確かめることも論じることもできません。

もう一度tadaさんの質問に戻りますが、tadaさんはこうおっしゃっています。

「イエス・キリストは本当に神の子でしょうか? これが信じられれば、信仰を受け入れることができます。」

わたしはあえて逆のことを言いますが、聖書の権威が神の権威であることを受け容れることができれば、イエス・キリストが神の子であることも、キリスト教の信仰も受け容れることが出きるのだと思います。