2008年9月17日(水)クリスチャンは裁判員になれない? 神奈川県 ハンドルネーム・よっちさん

いかがお過ごしでいらっしゃいますか。キリスト改革派教会提供あすへの窓。水曜日のこの時間はBOX190、ラジオを聴いてくださるあなたから寄せられたご質問にお答えするコーナーです。お相手はキリスト改革派教会牧師の山下正雄です。どうぞよろしくお願いします。

それでは早速きょうのご質問を取り上げたいと思います。今週は神奈川県にお住まいのハンドルネーム・よっちさんからのご質問です。お便りをご紹介します。

「最近、裁判員制度の話題をよく耳にしますが、イエス・キリストは『裁くな』とおっしゃっています。そうすると、クリスチャンは裁判員に選ばれたとき、断るべきなのでしょうか。
また、イエス・キリストは『赦しなさい』とおっしゃっています。もし、クリスチャンが裁判員になった場合、無罪になったり刑が軽くなったりして、他の裁判との間で不公平が生じることはないのでしょうか。
素朴な疑問ですが、よろしくお願いします」

よっちさん、メールありがとうございました。いよいよ来年、2009年5月21日から裁判員制度がスタートしますが、制度の話題はよく耳にしても、まだまだ具体的なことに関しては国民の間に理解が浸透していないように思います。恥ずかしながら、わたし自身もご質問をいただいて、裁判員制度についてあらためて公式ホームページを読みに行きました。

さっそくですが、まず、前半のご質問から考えてみたいと思います。
なるほど、イエス・キリストは「裁くな」とおっしゃっています(マタイ7:1)。裁判員制度に限らず、裁判そのものがそれではキリストの言葉に反するのでしょうか。
実は教会にも昔から裁判制度というものがありました。ローマカトリック教会には立派な教会法があって、その教会法に則って必要な宗教的な裁判が行なわれます。改革派・長老派教会にも訓練規程と呼ばれる教会の規則が定められていて、それに従って戒規などの宗教的な裁判が行なわれます。
もちろん、キリスト教会には様々な立場の考えがありますから、教会には裁判権や戒規の権能それ自体が与えられていないと考える人もいます。
しかし、「裁くな」とおっしゃるイエス・キリストご自身、マタイによる福音書18章15節以下で罪を犯した兄弟をどう扱うべきか、教えています。もちろん、最初から裁くべきだとはおっしゃっていません。その兄弟が罪を認め悔い改させるための努力をまずすべきであると教えています。
しかし、あらゆる努力を払っても、罪を認めず、悔い改めない兄弟に対しては教会が判断を下し、「その人を異邦人か徴税人と同様に見なしなさい」と教えています。それは最終的な判決であると同時に、それが教会での裁判のあり方のモデルとされています。

そもそもキリストがおっしゃる「裁くな」という言葉は、宗教的な意味での断罪に関わる問題であると同時に、この言葉は教会という組織に対して言われている言葉ではありません。一クリスチャンとして、他人を安易に断罪することは当然すべきことではありません。一クリスチャンとしては、裁くことが優先されるのではなく、あくまでも悔い改めとそれに基づく和解の努力を優先させるべきなのです。それでも、ダメな場合には教会に申し出て、教会がそのことについての判断を下すのです。そういう意味では教会の裁判制度とキリストの「裁くな」という言葉は矛盾するものでははありません。

しかし、もちろん、この世の裁判制度と教会の裁判制度とを同じ土俵で論じることはできないかもしれません。けれども、不正をただし正義を回復するという点では両者には共通したものがあります。したがってその制度に参与するということは、聖書やキリストの教えに決して反することではないはずです。

ただし、どちらも神がする裁判ではなく人間がする裁判ですから、絶対に間違いはないとはいえません。教会が下す戒規の判定には、身体的な拘束や死刑といった刑罰はありませんから、間違った判断を下した場合にも被告人の名誉を回復するチャンスはいくらでも残されています。しかし、この世の裁判では、死刑の判決を下した場合には裁判のやり直しのチャンスはありません。
そうしたことも理解した上で、裁判官になるクリスチャンがいたとしても、それはその人の良心の問題であって、一概に聖書の教えに反することとはいえないでしょう。
しかし、裁判員制度では、こうした良心や信仰の問題で裁判員になることを拒むことはできません。自分の判断とは違っていても、合議の結果、被告人に死刑の判決を下さなければならない場合も出てきます。
そういう意味では、良心や信条の自由を理由に裁判員になることを拒むことはできないのですから、むしろ、その問題の方が大きな問題かもしれません。

ただ、ご質問の第1点に関しては、クリスチャンであることは裁判員になれないとは聖書は必ずしも教えていないということです。

では、ご質問の後半の部分はどうでしょうか。裁判員の仕事は裁判官と一緒に事件が有罪か無罪かを判断し、有罪であれば、それに対する刑はどれくらいが妥当であるかを判断します。有罪か無罪かは客観的な証拠に基づく判断ですから、その人の思想や信条によって左右されるということはほとんどありません。もちろん、まったくないかといえば、先入観によって判断を誤る可能性がゼロとはいえません。しかし、それよりも問題なのは、有罪の場合、どのくらいの刑が適当であるかの判断は、その人の価値判断の基礎となる思想や信条によってかなりの幅が出てくることは否めません。もっとも、刑の幅は法律の条文によってその罪ごとの上限と下限が定められていますから、その範囲を越えてしまうということはありません。しかし、いずれにしても、刑の重さは裁判官の自由裁量に任されているというのは、法律自体が認めていることです。

さて、その場合、いろいろな人が裁判に参加することで、不公平な幅が出てくるということは否定できないだろうと思います。もっとも、たまたまクリスチャンばかりの裁判員が集まった裁判では必ず緩やかな刑が科されるとは一概に言えないと思います。
確かにイエス・キリストは「七回どころか七の七十倍までも赦しなさい」(マタイ18:22)と弟子たちに教えています。しかし、それは赦しを請う者たちに対してであって、罪を認めず悔い改めもしない者に対して無差別に赦しを与えるものではありません。ですから、クリスチャンの裁判員が下す判決はいつも甘いとはいえないでしょう。

ただ、そもそも裁判員制度を導入する理由の一つとして「裁判官の感覚が一般市民とかけ離れているから」ということが上げられています。そういう意味では今までの「判決の相場」とは違った判断が出てくることは、そもそもこの制度が期待しているところです。問題は、それが本当に望ましい裁判のあり方なのか、それとも、それは国民にとって恐ろしい結果をもたらす制度となるのか、ということです。

ということで、「赦すこと」を信条の一つにしているクリスチャンが参加することで刑罰が重い方向へ行くのか、軽い方向へ行くのかは一概に言えませんが、裁判ごとに裁判員の構成によって刑の重さに違いが出てくることは避けられないことだと思います。