2008年12月3日(水)イエスは弟子たちに洗礼を授けたか? ハンドルネーム・tadaさん

いかがお過ごしでいらっしゃいますか。キリスト改革派教会提供あすへの窓。水曜日のこの時間はBOX190、ラジオを聴いてくださるあなたから寄せられたご質問にお答えするコーナーです。お相手はキリスト改革派教会牧師の山下正雄です。どうぞよろしくお願いします。

それでは早速きょうのご質問を取り上げたいと思います。今週はハンドルネームtadaさんからのご質問です。お便りをご紹介します。

「なぜイエスの生涯を描いた福音書の中に、弟子たちに洗礼を授けたシーンが見られないのでしょうか? イエス自身はバブテスマを大切になさっていることは聖書にも記されているのに・・・・。」

tadaさん、いつも番組を丁寧に聴いてくださってありがとうございます。また、人とはいつも一味違った観点でご質問をお寄せくださってありがとうございます。

なるほど、イエス・キリストが洗礼を大切になさっていることは確かに新約聖書が証言しているところです。そうであるならば、何故イエス・キリストご自身が弟子たちに洗礼をお授けになっている場面が福音書の中には出てこないのでしょうか。

この疑問に取り組む前に、きょうはわたしも一味違った観点からtadaさんのご質問を読ませていただきました。実はご質問を読ませていただいて、今回のご質問はいつものtadaさんらしくないところがあると思いました。
というのも、tadaさんは「イエス自身はバブテスマを大切になさっていることは聖書にも記されているのに」とあっさりと書いていらっしゃいます。いつものtadaさんなら、まず、その点から疑うのではないかと思いました。

そもそも、イエス・キリストご自身は洗礼を大切になさっていらっしゃったのでしょうか。聖書のどこを読めば、そういえるのでしょうか。

こんなことをわたしが言い出したら、いつものtadaさんとわたしとが立場が逆転してしまったかと思われるかも知れません。

きっと、いつものtadaさんなら、最初からこんな風に問いを立てたのではないかと思うのです。

「なぜイエスの生涯を描いた福音書の中に、弟子たちに洗礼を授けたシーンが見られないのでしょうか? それは実はイエス自身がバブテスマを大切になさっていなかったことを物語っているのではないでしょうか。」

tadaさん、いかがでしょうか。tadaさんの疑問に対する取り組み方の一つは、聖書の記述を疑うことからはじまるのだと思います。tadaさんは「イエス自身はバブテスマを大切になさっていることは聖書にも記されているのに・・・・」と書いていますが、それは具体的には聖書のどういう記述から導き出したのでしょうか。

わたしなりに思い当たることを挙げると、二つほど聖書の箇所を上げることができます。

まず第一に、イエスご自身、洗礼者ヨハネから洗礼をお受けになったという点です(マルコ1:9)。洗礼を軽視しているイエスであったとするなら、洗礼者ヨハネから洗礼を受けることはなかったことでしょう。マタイによる福音書には、どうしても洗礼を受けたいと願うイエスとそれを阻止しようとする洗礼者ヨハネの間の押し問答までもが記されています(マタイ3:13-15)。もちろん、この押し問答のやり取りが歴史的な事実なのか、それとも「なぜメシアであるイエスがメシアでもない洗礼者ヨハネから洗礼を受ける必要があったのか」という後世の疑問に答えるための創作なのか、という問題もあるでしょう。しかし、逆に言えば、イエスが洗礼者ヨハネから洗礼を受けていなければ、そもそもそういう後世の疑問自体が問題になりません。つまり、イエスが洗礼者ヨハネから洗礼を受けたということはほぼ確実と考えることができますし、そのことはイエスが洗礼を重視していたことの証しと考えることができます。

もう一箇所はイエス自身の口から洗礼を授けるようにという命令が弟子たちに与えられていると言う点です。復活のイエスはおっしゃいました。
「だから、あなたがたは行って、すべての民をわたしの弟子にしなさい。彼らに父と子と聖霊の名によって洗礼を授け、あなたがたに命じておいたことをすべて守るように教えなさい。」(マタイ28:19-20)
そして、そのように教会は洗礼を授けて、キリストに連なる者たちの数を増やしていきました。少なくとも初代の教会が洗礼を重要視していたことは新約聖書に残された使徒たちの手紙や使徒言行録にしるされていることから明らかです。そして、教会が洗礼を重視していたという事実は、イエスが洗礼を命じたからという事実を裏付けるものです。もしイエスの命令がなければ教会は父と子と聖霊の名によって洗礼を授けることを厳格に守りはしなかったことでしょう。そして、イエスが洗礼を命じたと言うことは、イエスが洗礼を大切にしていたという証拠なのです。

ところが、二番目の証拠については、いつものtadaさんなら、きっとこう反論すると思います。

「そもそも、復活と言うこと自体がありえないことなので、復活のイエスが命じたことは歴史的な事実として証明されないのではないか。むしろ、順番は逆で、初代教会の入門のしるしとして授けられていた洗礼を正当化するために、後の教会があたかもイエスの命令であるかのように福音書を書いたのだ」と。

もちろん、わたしはそうは思いません。ただ、時間の関係で今回はこの反論にあえて反論することはいたしません。

そうすると、イエスご自身が洗礼を大切にしていることを証明できる確実な証拠は、イエスご自身が洗礼をお受けになっているという事実だけということになります。しかも、厳密に言えば、その洗礼はイエスがのちに弟子たちに命じる洗礼ではなく、洗礼者ヨハネが授けていた「罪の赦しを得させるための悔い改めの洗礼」です。洗礼者ヨハネが自分に与えられた任務として授ける洗礼ですから、いくらイエスがそれを大切にしたからといって、ヨハネと同じ洗礼を弟子たち授けなかったのは当然のことです。

さらに、ヨハネによる福音書1章35節以下によれば、少なくとも十二弟子の一人、アンデレはもともとは洗礼者ヨハネの弟子で、すでにヨハネから洗礼を受けています。したがって、この弟子に敢えてイエスがもう一度洗礼を授けないとしても、頷けることだと思います。ヨハネによる福音書はもう一人、洗礼者ヨハネの弟子からイエスの弟子になった人物のことを言及していますが、その他にも既にヨハネから洗礼を受けていた人たちがたくさん居たことは容易に想像がつきます。ですから、そもそもイエスご自身が洗礼を授ける必要がある場面が限られていたのではないかと考えられます。

では、イエス自身は洗礼を授けなかったのでしょうか。
ヨハネによる福音書3章22節以下には、洗礼者ヨハネの洗礼とイエスが授ける洗礼が共存する時期があったということが記されています。残念ながら、それ以外にイエスが自分で弟子たちに洗礼を授ける記述はありません。
さらに、ヨハネによる福音書4章1節以下に記される出来事には、福音書記者の注釈として、「洗礼を授けていたのはイエス御自身ではなく、弟子たちであった」とありますから、ほとんどイエスご自身が洗礼を授けることはなかったということだったのだと思います。

そしてイエスご自身が洗礼をお授けにならないその理由は、ご自分が復活後に命じる洗礼との関係があったからではないかとわたしは考えます。