2010年1月27日(水) 世の終わりの不安の中で 埼玉県 N子さん
いかがお過ごしでいらっしゃいますか。キリスト改革派教会がお送りするBOX190。ラジオを聴いてくださるあなたから寄せられたご質問にお答えするコーナーです。お相手はキリスト改革派教会牧師の山下正雄です。どうぞよろしくお願いします。

それでは早速きょうのご質問を取り上げたいと思います。今週は埼玉県にお住まいのN子さん、女性の方からのご質問です。お便りをご紹介します。

「山下正雄先生。いつも番組で学ばせていただき有難うございます。
人類の歴史の中で、いつもあらわれてくる世の終わりについて不安を煽るような映画がまた評判を呼んだりしています。
20世紀末も、大予言なるものが世間を騒がせました。今回もマヤ文明の予言で、2012年に世界の終りが来るといっています。
コンピューターグラフィックの映像は予告を見ただけですが、大変リアルで恐ろしいものです。こんな時代私たちはどんな思いで生き抜いたらよいのでしょうか?」

N子さん、お便りありがとございました。お便りの中にも出てきました20世紀末の大予言というのは、確かノストラダムスの予言した「恐怖の大王」のことではないかと思います。このBOX190の番組でも、その当時取り上げた覚えがあります。
1999年のその日が来るまでは何とでもいうことができましたが、実際あのノストラダムスの予言が大騒ぎした日が過ぎてしまえば、もはや誰も何もいうことができないほどに、はっきりとした結果が出てしまいました。あのとき大真面目にノストラダムスの予言が言い当てたといわれる世界滅亡の時を吹聴して回った人たちは、いったいどこへいってしまったのでしょうか。
そんな記憶がまだはっきりと残っているこのときに、今度はマヤ文明のカレンダーが語る世界の破滅の謎を取り上げた映画が大ブームを呼んだようです。よくもまぁ、そんな話題を見つけてきたものだと感心してしまうほどです。
たかが娯楽映画のことですから、映し出されるリアルな映像を臨場感をもって楽しめばよいと言ってしまえばそれだけのことです。第一その映画を制作している人たちが、ほんとうに2012年の12月21日に世界が滅びることを信じているのだとしたら、おちおち映画作りなど暢気にしている場合ではないでしょう。

ところで、2012年に世界が滅亡するという根拠ですが、どうやらマヤ文明で用いている暦に、いくつかの周期があるところから、その周期の切れ目が世界の滅亡を予告しているのではないか、ということらしいです。もっとも、マヤ文明で用いている暦に周期があることが、世界の滅亡を予告したものであるのかどうか、それ自体が一つの解釈にすぎません。
いずれにしても、世界には様々な世界観をもった文明が存在していたということは、それ自体としてとても興味深いものがあります。

日本でも1052年に末法思想と呼ばれる一種の終末的な危機感が広く社会に流行った時代がありました。おりしも貴族社会の衰退の時期と重なり、人々の不安をあおった時代です。末法思想というのは釈迦が亡くなってから2000年後に訪れるといわれる仏教の教えが衰退する時期で、その時代が始まると天災人災がおこり、世の中が乱れると信じられていました。宇治の平等院鳳凰堂が建立されたのはまさにその時期で、末法の世に極楽浄土に往生すること願って建てられたものといわれています。

そうした様々な文化や文明の中に現れる終末的な思想というものは、この世の中が決して今のまま続くものではないということを物語っています。時代や地域に関係なく、そうしたものが繰り返し説かれるというところに興味を覚えます。

もちろん、こうした興味をわたしが抱くのは、すでにキリスト教的な終末論を受け入れているからだと思います。クリスチャンであるわたしにとっては、他の文明や文化や宗教が語る終末論を真に受けて不安や恐怖心に打ちのめされることはありません。しかし、こうした共通した不安を人間が持っているということの中に、聖書の神の働きかけがあるのではないかと考えてしまうのです。

いずれにしても、この世の中がいつまでも続くものではないと考えることは、人間の生き方にとって決して小さなことではないことは確かです。いつまでも続かない世界について考えることは、決して、刹那的で頽廃的な生活を助長することになるとは限りません。もちろん、キリスト教の終末論でさえ、ややもすると刹那的で頽廃的な生活を助長することになるのは歴史の事実です。
実際、聖書を読むと、主イエス・キリストの来臨が近いからというので、真面目に働こうとしない人たちがいたようです。パウロはそうした人たちにたいして、テサロニケの信徒への手紙一の5章14節で「怠けている者たちを戒めなさい。気落ちしている者たちを励ましなさい」と勧めています。この勧めの言葉は、勤労を命じた一般的な勧めの言葉ではなく、その直前のところで書いてきた終末への備えと深い関係があるはずです。
しかし、そういう人がクリスチャンの中にも、またそうでない人の中にもいるとしても、それでも、世の終わりについて考えることが、すべて人のやる気を失わせ、刹那的な生き方に人を追いやってしまうというわけではありません。
人間は世の終わりを考えることで、人生について深く考えたり思ったりするものです。自分自身の死について考えることが、人を人生に真面目に向かわせるのだとしたら、世界の終わりについて考えることが、なおいっそう生きることの意味について、人を真面目に取り組ませるのではないかと思うのです。

そういう意味では、世の終わりについて何かしら考えるきっかけを与える思想や作品が生み出されることは、必ずしも反対したり憂えたりするべきことではないように思うのです。

もっとも、キリスト教のいう終末論というのは、決して悲観的な世の終わり、世界の滅亡ではありません。少なくともキリストを信じる者にとって、キリスト教の教える終末論は単なる滅亡論ではありません。

聖書の言葉でいえば、それは新しい天と新しい地が姿を現す時であり(黙示録21:1)、死が完全に勝利に飲み込まれるときであり(1コリント15:54-55)、清い者、とがめられるところのない者となって神のみ前に立つ日です(フィリピ1:10)。言い換えれば、前味として味わっていた救いの完成を完全に味わう時です。

ただ、イエス・キリストはだからと言って世の終わりの時まで暢気に構えていなさいとはおっしゃいませんでした。
むしろ、目を覚ましていなさい、忠実な僕のように、賢い乙女のように振舞いなさいと教えてくださいました。

それは、いつ終末のときが訪れるのか、人間には誰もわからないからです。いつその時が訪れてもよいように、いつでも主イエス・キリストをお迎えする準備ができているように、そのように過ごすことをイエス・キリストは私たちに願っているのです。

世界の滅びのためにではなく、救いの完成のために喜んでイエス・キリストをお迎えできるように備えましょう。