2010年4月14日(水) 何で勉強しないといけないんですか? ハンドルネーム・中坊さん
いかがお過ごしでいらっしゃいますか。キリスト改革派教会がお送りするBOX190。ラジオを聴いてくださるあなたから寄せられたご質問にお答えするコーナーです。お相手はキリスト改革派教会牧師の山下正雄です。どうぞよろしくお願いします。

それでは早速きょうのご質問を取り上げたいと思います。今週はハンドルネーム中坊さんからのご質問です。携帯からの短いご質問です。お便りをご紹介します。

「どうして勉強しないといけないんですか。勉強しなくても人間は生きていけると思います。学校の勉強はうんざり。学校の先生も親もうるさすぎます。」

中坊さん、メールありがとうございました。中坊さんの言っている「勉強」というのは中学の勉強のことでしょうか。自分が中学生時代だったころのことを振り返ってみると、その気持ちがよくわかります。こんな勉強をして一体、何になるんだろうって思うことがよくありました。
わたしは数学が得意ではなかったので、足し算や引き算が買いものするときに必要であるのはわかっても、それ以上の難しい「公式」だとか「証明」だとか、いったいこれからの人生のどこで使うのだろうかと、そんなことばかり考えていました。
逆に英語の授業は好きでしたので、それが将来必要であるのかないのかに関係なく、よく勉強しました。
きっと中坊さんも全部の勉強が嫌いなのではなくて、興味が持てない勉強が嫌いなのだと思いました。

ところで中坊さんは日本で義務教育がいつ始まったのか知っていますか。明治時代になって、わずか四年で義務教育が始まりました。1872年に学校教育に関する法律が定められ、1875年までには全国にたくさんの小学校が生まれました。

ちなみに、その当時の世界全体を見渡してみても、国家が国民に教育を受けさせる制度というのは、そんなにたくさんの国で実施されていたというわけではありません。そういう意味では日本は世界でも先進的な教育熱心な国だったということができるかも知れません。

では、日本ではそれまで勉強の機会がなかったのかというとそうではありません。庶民の勉強は寺子屋と呼ばれるところで行われていました。ただ、すべての人が勉強の機会を与えられていたかというと、必ずしもそうではありませんでした。しかし、寺子屋のおかげで、当時としては世界的にも例を見ないほどたくさんの人が文字を読めることができたというのも事実です。

けれども、当時は知識といえば中国から学ぶことが圧倒的に多かったため、幕末のころ欧米の大きな強い国の文化や文明にさらされて、そのあまりの進歩の大きさににおののくしかありませんでした。

今ちょうどNHKの大河ドラマで坂本龍馬のことをやっていますが、中坊さんはご覧になっているでしょうか。日本に開国をせまる黒船がやってきて、それを見た日本国中は大騒ぎになりました。
最初は黒船など追い払えると考えていた人たちも、やがて国力や文明の違いの大きさに、鎖国体制は維持できないものと考えるようになったのです。いえ、むしろ欧米の文明や文化に積極的に学ぶことが日本という国にとってためになると思う人たちの声が大きくなっていったのでした。

それで、これほどの文明の違いを埋めるには、たくさんのことを欧米から学んで吸収しなければなりません。そこで教育の水準をもっと引き上げなければならないと考えたのは、当然のことの成り行きでしょう。これは上級武士だけの教育水準を上げても意味がありません。国民全体の教育水準が上がっていかないことには、文明は広くいきわたらないからです。

また、国民全体の教育的な水準が上がるということは、言いかえれば、それだけいろいろな人たちに働くチャンスが行きめぐるということにもつながります。
考えてもみてください。一を教えて十のことを理解できる水準があれば、誰にだって安心して仕事を任せることができます。そういう人がたくさんいればいるほど、協力して大きなこともしやすくなります。そういう意味で学校での基本的な勉強は必要なのです。

それにしても、英語の嫌いな人は、一生英語など使わなくて済む人もいるはずです。理科で習った化学記号や化学変化などまったく忘れてしまっても、生活になんら問題なく暮らしている大人はいっぱいいます。正直言って、今、中学や高校のテストをわたしが受ければ、現役の生徒さんに勝てる自信はありません。
それなら、なおのこと、勉強なんてやる意味がないじゃないか、といわれてしまうかもしれません。

しかし、自分の将来と直接結びつかないいろいろなことを勉強することには、二つの点で意味があります。
一つは、いろいろなことをやってみて、初めて自分にとって得意なことや興味があることを見つけ出すことができるということです。もちろん、そういうことを見つけ出すのは、学校での勉強を通して以外にはできないとは言いません。しかし、学校での勉強を通してそういう機会を得ることは、もっとも簡単な方法の一つです。わざわざ難しい道を進むことはないでしょう。
もちろん、自分はすでに興味があることを見つけたから、これ以上、他のことは勉強したくない、ということもあるかもしれません。ただ、若いころから興味を狭めてしまうよりは、いくつものことに関心と興味を持っていた方が、より幅広く生きることができることにもつながります。たくさんのことに興味と関心を持つには、結局たくさんのことに触れてみるよりは方法がありません。そして、たくさんのことに触れて初めて、自分の興味と関心が何であるのか、もっとよくわかるようになるのだと思います。

自分の将来と直接結びつかないいろいろなことを勉強することに意味があるもう一つの理由は、学問や生活の知恵というのは、それだけで成り立つということはほとんどないからです。いろいろな知識が組み合わさって、さらに新しいものの見方や考え方が生まれてくるものです。最初から何が役に立って、何が役に役に立たないのか、それが分かっていることというのはほとんどありません。無駄と思える知識も、積み重なって組み合わさるときに、新しい大きな力を発揮するものです。
そういう意味でも、直接生活の役に立ちそうもないたくさんのことを知っておくことは大切なことだと思います。

さて、きょうの話しはキリスト教とは全然関係ない切り口になってしまいました。きっと、同じ話は学校の先生からもお父さんお母さんからも聞かせれてきて、うんざりしているかもしれません。

あえて、キリスト教的に話をまとめようとすれば、こういうことだと思います。物事を知って理解すること、そして、それを応用するという能力は、神が人間に与えた特別な能力です。ですから、学び続けることは人間にとってふさわしいことなのです。

最後に、もう一つだけ話しておきたいことがあります。実は学校の勉強とほんとうの意味での学問とは違うものです。その違いは自分の興味と関心とをとことん追及して知ろうとしたときに分かるはずです。しかし、自分の興味と関心とをとことん追及するには、基本的な知識がどうしても必要になります。その基本を学んでいるのが学校の勉強だと思ってください。
大切なことは、中坊さんが、何かひとつのことでもいいですから、興味と関心とをひく事柄を持っていることです。そのことをとことん究めようとするときに、きっと勉強の種は尽きないと思うようになるはずです。テストのための勉強ではなく、探求したい好奇心を満たすために、貪欲に知識を蓄積していってもらいたいと思います。