2010年9月22日(水) エサウが譲った長子の権利とは? 長野県 ハンドルネーム・やすさん

いかがお過ごしでいらっしゃいますか。キリスト改革派教会がお送りするBOX190。ラジオを聴いてくださるあなたから寄せられたご質問にお答えするコーナーです。お相手はキリスト改革派教会牧師の山下正雄です。どうぞよろしくお願いします。

それでは早速きょうのご質問を取り上げたいと思います。今週は長野県にお住まいのやすさん、男性の方からのご質問です。お便りをご紹介します。

「山下先生、いつも番組を感謝して聴いています。
早速ですが、教えていただきたいことがあります。
それは、創世記にあるエサウとヤコブの話に出ててくる『長子の特権』についてです。エサウは一杯のレンズ豆の煮ものと交換に長子の権利を弟に譲ってもいいと口約束してしまいます。この場合の『長子の権利』とは何でしょうか。また、口約束によって譲れるような性質のものなのでしょうか。よろしくお願いします。」

やすさん、お便りありがとうございました。いつも番組を聴いてくださって嬉しく思います。

さて、ご質問に出てきた話ですが、この話は創世記の25章27節以下に出てくる話です。英語の表現に「一時的な利益のために永久的な利益を手放してしまう」ことを「一杯のポタージュのために家督権を売る」という言い方がありますが、そういう表現が生まれるくらいに有名な逸話です。聖書をお読みになったことのない方のために、簡単にストーリーをご紹介したいと思います。

登場人物のエサウとヤコブは、双子の兄弟でした。兄のエサウはワイルドな性格だったのか、巧みな狩人でした。弟のヤコブの方は穏やかな人で天幕の周りでいつも働いていました。お父さんの名はイサク、お母さんはリベカで、信仰の父と仰がれるアブラハムから見ればエサウもヤコブも孫にあたります。

ある日のこと、ヤコブが煮物をしていると、エサウが狩りから疲れきって帰ってきます。よほどお腹がすいていたのでしょう。帰ってくるなり、弟のヤコブが作っていた煮物を欲しがります。
何を思ったのか、ヤコブは素直にお兄さんの求めに応じないで、駆け引きをします。まずは、お兄さんの長子の権利をわたしに譲ってください、と言うのです。
空腹に耐えきれなかったエサウは、長子の特権などどうでもよいと、簡単に譲ってしまいます。エサウは飲み食いした後、さっさとその場を去ってしまいます。

この物語を記す創世記は、この話をこう結んでいます。

「こうしてエサウは、長子の権利を軽んじた」

この結論の言葉からもわかるように、長子の権利は一杯の煮ものと交換してもよいような、軽い権利では決してありませんでした。

さて、その「長子の権利」という言葉ですが、ヘブライ語で「ベコラー」と言います。これは最初に生まれた子供であるべホールという言葉からくる言葉です。この長子の権利についての規定は申命記21章15節以下に次のように規定されています。

「ある人に二人の妻があり、一方は愛され、他方は疎んじられた。愛された妻も疎んじられた妻も彼の子を産み、疎んじられた妻の子が長子であるならば、その人が息子たちに財産を継がせるとき、その長子である疎んじられた妻の子を差し置いて、愛している妻の子を長子として扱うことはできない。疎んじられた妻の子を長子として認め、自分の全財産の中から二倍の分け前を与えねばならない。この子が父の力の初穂であり、長子権はこの子のものだからである。」

この規定自体が一夫多妻制を前提にしているので、ちょっとややこしい規定ですが、要するに、生まれた時間的な順番に従って誰が長男であるかを決めることが律法の原則であり、長男には全財産の三分の二を継がせるべきである、という規定です。

この場合、長子の権利は、全財産の三分の二を相続することができるという権利です。

もっとも、この規定はエサウやヤコブの時代よりもずっと後に授けられた規定ですから、いわゆる族長時代にどのような相続がなされていたのかは定かではありません。遊牧民族の場合には、おそらく羊などの財産が長男とそれ以外の子供との間で分割されたのだろうと思います。農耕民族のように土地が主要な財産である場合には、長男が土地のすべてを相続しないで、分割されてしまえば、農耕そのものが成り立たなくなってしまうという事態も起こりかねません。

長男が他の子供たちよりも多くを相続したのは、母親や他の未婚の子供たちを養うという責任から考えて妥当なことだと考えられます。

では、この長子の権利を弟に譲ることができるのかどうか、という問題ですが、このエサウとヤコブの話では、そういう権利の譲渡が法律的に可能かどうかという問題よりも、生来の権利である長子の権利を軽んじた愚かさが問題になっているということです。

そもそも、長子の権利といっても、これが長子の権利ですということを示す権利証が存在したわけではありません。ですから、エサウにとっては目に見えない権利を口約束で譲ったとしても、それは大きな問題ではないと思えたのでしょう。それは言い換えれば、その様な考えはエサウの生きる上での姿勢にも少なからず影響を及ぼしていたのではないかと思われます。つまり、目に見えないものを軽んじ、目の前にあるものだけを重視する生き方です。
新約聖書ヘブライ人への手紙12章16節では、このエサウの軽率な態度を非難して、こう記されています。

「また、だれであれ、ただ一杯の食物のために長子の権利を譲り渡したエサウのように、みだらな者や俗悪な者とならないよう気をつけるべきです。」

話をもとに戻しますが、長子の権利は、申命記が定めているとおり、最初に生まれた息子に必ず与えられたものなのか、他の子供に変更することはできなかったのか、というと、実際にはそうでない場合も聖書の中には見られます。

たとえば、ヤコブのあとにも、ヤコブの長男であるルベンは長子の権利をヨセフの子孫に譲らねばならなかった、と歴代誌上の5章2節は語っています。同じように歴代誌上の26章10節にはシムリは長男ではなかったが、その父によって頭とされたと記されています。

ですから、長男以外の息子が家督を継ぐことは例がないというわけではありません。また、そういうことが恣意的に行われないように、申命記の21章にあるような規定が定められたともいえます。

ただ、ヤコブの話に限って言えば、エサウとヤコブが生まれる前から、神によって「兄は弟に仕えるようになる」(創世記25:23)と預言されていましたから、エサウがヤコブに長子の権利を譲ったのは、神の深い御計画の中にあったことと言わざるを得ません。
ただしそれは人間の罪深い思いと行動とによって実現されているという点で、決して運命や宿命によってエサウが長子の権利をはく奪されたという話ではないのです。