2011年2月9日(水) 聖書がなくても神を知ることはできる? ハンドルネーム・ランさん

 いかがお過ごしでいらっしゃいますか。キリスト改革派教会がお送りするBOX190。ラジオを聴いてくださるあなたから寄せられたご質問にお答えするコーナーです。お相手はキリスト改革派教会牧師の山下正雄です。どうぞよろしくお願いします。

 それでは早速きょうのご質問を取り上げたいと思います。今週はハンドルネーム・ランさんからのご質問です。お便りをご紹介します。

 「山下先生、いつも番組を楽しみに聴かせていただいています。きょうはわたしの疑問にお答えいただければと思い、メールさせていただきました。
 聖書の言葉に『天は神の栄光を物語り、大空は御手の業を示す』(詩編19:2)とあります。これは平たく言えば、自然を眺めてみれば、そこに神様の手の働きを見て取ることができるということでしょうか。確かにパウロもローマの信徒への手紙の中で『世界が造られたときから、目に見えない神の性質、つまり神の永遠の力と神性は被造物に現れており、これを通して神を知ることができます』(ローマ1:20)と書いています。
 これらの言葉から考えると、人間は聖書がなくても、ある程度自然から神を知ることができるということでしょうか。それとも、自然を眺めるだけでは真の神を知るには至らないのでしょうか。
 そのあたりのことを教えてください。よろしくお願いします。」

 ランさん、お便りありがとうございました。ランさんがご質問になったような事柄は、キリスト教神学の言葉で言うと「自然神学」をめぐる議論ということになります。あるいは、一般啓示と特別啓示の問題ということもできます。またそれは聖書の必要性をめぐる問題にも関ってきます。そう言ってしまうと、とても難しく聞こえますが、事柄はまさにランさんがご質問してくださったことに尽きます。

 さて、特別啓示である聖書を抜きにして、果たして人間はまことの神を知ることができるのでしょうか。この問いには比較的簡単に答えを出すことができるように思います。
 もし、聖書を抜きにしてまことの神を知ることができるとすれば、世界にたくさん宗教は存在しなかったはずです。しかし、現実の世界を見ればわかる通り、人間が神について知っていると自己主張することは多種多様で、決して一つではありません。また、その多様な主張から、神について一つの共通のモデルを作り出すこともできません。
 では、厳密ではないまでも、ある程度知ることができるのかというと、これも何をもって「ある程度」というのかによります。
 たとえば、人間の理性が神について想像しうることがらを挙げるとします。神は時間と空間とに束縛されないお方だ、とか、神は可能性についてなんら制限を受けない全能者であるとか、神は知識についても欠けたところがないお方であるとか、こういう事柄は確かに、聖書によらなくても人間が理性によって到達できる神知識であるように思われます。そして、そうして得た神知識は聖書の教える神と一致しているように思われます。
 しかし、今挙げた神知識の具体例はたまたま聖書が教える神の御性質と一致したものをわたしが意図的に拾い上げただけにすぎません。聖書に答えがあるからこそ、人間はある程度神についての知識を持っているように思えるだけです。しかし、人間の考え出す神の姿は他にももっとたくさんあって、それらを聖書を抜きして、どれが正しくどれが間違っているのかを人間自身が理性によって峻別することは不可能です。あらゆる多種多様な宗教が存在すること自体が、人間は理性によってまことの神知識に至らないことを物語っているように思えます。

 では、ランさんが引用してくださった聖書の言葉が語っていることは、いったいどういうことになるのでしょうか。

 確かに詩編19編の出だしでは、「天は神の栄光を物語り 大空は御手の業を示す」と記されています。天を見上げ、大空を見るときに、そこには神の栄光が現れ、大空が神の御業であることを自ら物語っているのですから、神の造った被造物が神を証ししているということになります。同じ詩編は続けてこうも言っています。
 「話すことも、語ることもなく 声は聞こえなくても、その響きは全地に その言葉は世界の果てに向かう」(詩編19:5)

 自然の中で耳を澄ませば、神の造られたものたちが声にならない声でまことの神の存在を語っているようです。

 詩編は文学的な文章ですから、文字どおりに理解すべきではない、ということも言えるかもしれません。しかし、それ以上に、この詩編の作者が既に信仰を持った者であるという点を見過ごしてはなりません。
 つまり、まことの神に対する信仰を持たない者が、天を見上げ、大空を眺めて、そこに現れたまことの神の栄光に気がついた、という内容の詩ではないのです。すでにこの詩編の作者は信仰を持っていて、その信仰的な目で自分を取り巻く世界を見ているのです。観察の結果、そこに神を見出したのではなく、信仰の目を通して、天地万物の創造者である神に対する信仰の確信を一層深めているのです。

 では、自然を通して神は客観的に語ってはいないのでしょうか。そうではありません。ランさんが引用してくださったローマの信徒への手紙1章20節はそのことを語っています。ただし、この言葉が出てくる文脈から明らかなように、神はご自分のお造りになったものを通して、明らかにご自身の存在を示しているにも関わらず、人間はそれを見ようともせず、聞こうともしないのです。そればかりか、返ってそれらをゆがめて理解しているところに問題があるのです。それが罪ある人間の現実なのです。

 例えて言えば、壊れたラジオで番組を聴いても、正しく内容を理解することはできないというのと同じです。それは電波を送り出す放送局に問題があるのではなく、ラジオが壊れているので聞こえないのです。放送局がないのでもなければ、電波の調子が悪いのでもありません。問題はラジオ自体にあるのです。

 まさにそれと同じことが、被造物を通して語る神と人間との間にも言うことができるのです。

 では、人間の罪の問題が解決され、新しくされた心で神がお造りになった自然を見るときに、そこに造り主である神の存在を感じることができるようになるのでしょうか。そして、もはや聖書を必要としなくなるようになるのでしょうか。

 残念ながら、それとこれとは別問題です。神が自然を通して語ることは、ほんの一部のことでしかありません。とくに自然は人間の救いについての知識を何一つ提供してはくれません。イエスという人物が救い主キリストであることも、キリストの十字架の死がわたしたちの罪の贖いであったことも、いくら自然を眺めたところで、その知識には到達することはできません。それは聖書をとおして神が語ってくださっているからこそ、得ることのできる知識です。

 従って、一般啓示があっても、神について知りうる事柄は十分に得ることができるというわけではないのです。神について、救いについて、必要十分な知識はただ聖書をとおしてだけ与えられているということです。

 最後にもう一点だけ付け加えておきますが、では、神は今日、聖書以外の方法で救いについての御計画とご自身の御心とを直接お語りにならないのでしょうか。残念ながらそのようなことは神の国の完成の日まではないと考えてよいでしょう。