2011年4月13日(水) アブラハムの他の子どもたちは? ハンドルネーム・こじろうさん

 いかがお過ごしでいらっしゃいますか。キリスト改革派教会がお送りするBOX190。ラジオを聴いてくださるあなたから寄せられたご質問にお答えするコーナーです。お相手はキリスト改革派教会牧師の山下正雄です。どうぞよろしくお願いします。

 それでは早速きょうのご質問を取り上げたいと思います。今週はハンドルネーム・こじろうさんからのご質問です。お便りをご紹介します。

 「アブラハムの子どもは、イシュマエルとイサクだとばかり思っていました。でも創世記25章には六人の子どもが別にいるとあります。あまりこの子どもたちのことについては教会では触れられないようですが、なぜですか?」

 こじろうさん、はじめまして。お便りありがとうございました。お便りを読ませていただいて、ふと、昔はやった歌を思い出しました。「アブラハムの子」というタイトルの歌です。キャンプやリクリエーションの時に、コミカルな振付で、踊りながら歌った経験がある方もいらっしゃるかもしれません。
 もともとは、英語の歌なのですが、日本では「およげたいやきくん」で有名になった子門真人さんがこの歌のレコードを出していて、テレビから流れてくるのを聴いた方も多いのではないかと思います。
 ちなみに、子門真人さんは聖公会のクリスチャンで、その芸名の「子門」は聖書に出てくる「シモン」から取られています。

 さて、この「アブラハムの子」という歌の歌詞ですが、「アブラハムには七人の子、一人はノッポで、あとはチビ」と始まります。七人というのは、おそらく、イサクと、それから、こじろうさんが挙げてくださった創世記25章1節以下に出てくる六人の子供たちのことを言っているようです。
 そうすると、エジプト人の側女ハガルとの間に生まれたイシュマエルは数に入っていないということになるのでしょうか。

 実は、英語の方の歌詞には二通りあって、一つは日本語訳の歌のように「アブラハムには七人の息子」と歌っています。しかし、もう一つの歌詞は、「アブラハムにはたくさんの子」という出だしではじまり、そのたくさんの子というのは、わたしやあなただ、と続きます。

 ちょっと話が横道にそれてしまいましたが、アブラハムの正妻との間の息子は、と問われれば、サラとの間に一人、それからサラがなくなった後に迎えた妻ケトラとの間に六人、合わせて七人です。
 しかし、その他に側女ハガルとの間にイシュマエルが生まれていますから、息子の数は全部で八人ということになります。
 では、八人で終わりかというと、そうではありません。創世記25章6節を正確に読むと、複数の側女たちから複数の息子たちが生まれていることがわかります。残念ながらそれらの息子たちは名前すら知られていません。
 つまり、アブラハムの子供たちには有名な人物と、名前が一度きりしか出てこない人と、さらには名前すら知られていない子供たちがいるということです。

 そこで、ご質問に戻りますが、では、いったいどうしてアブラハムの子供たちのうち、イサクとイシュマエル以外の子供たちについて、教会ではあまり触れられないのでしょうか。

 教会での会話や話題の中に、そのほかの子供たちについてあまり出てこない理由は簡単に答えることができます。それは聖書自身がそれらの子供たちについてほとんど語っていないからです。極端な話、名前しか出てこないのですから、教会の中での話題に取り上げようがありません。あの歌の歌詞では、「一人はノッポであとはチビ」らしいのですが、英語の歌詞ではノッポでもチビでもなく、みんな決して泣きも笑いもしない人たちだったらしいです。しかし、そのどれも聖書に書いてあることではありません。

 では、聖書の神にとって、イサク以外はどうでもよい子供たちだったのでしょうか。決してそうではないでしょう。神にとっては、ご自分が深い熟慮のもとに存在させた一人一人なのですから、無関心であるはずがありません。
 しかし、聖書を書きしるす目的からすれば、どの人物を詳しく描き、どの人物を舞台から後退させてしまうか、取捨選択しなければなりません。それぞれの人生にとっては、その人自身が主役であることは間違いありませんが、しかし、救いの歴史を描くときには、より詳しく描かれる人と、そうでない人がいるということです。

 誤解のないように繰り返しますが、詳しく描かれなかった人は、神にとってどうでもよい人物ということではありません。神は人類の救いのために歴史を導き、その救いのために、やがて一人の人の子孫から、一人のメシアを誕生させ、このメシアを通してあらゆる国民を救おうとされていらっしゃるのです。その目的のために要となる人物を選んで、歴史を導いておられるのです。

 それは、選びの歴史と呼んでもよいと思います。しかし、「選び」という言葉を使うと、また誤解を呼んでしまいそうです。というのは、この世的な考えからすれば、人が人を選ぶのは、その人の優秀さや好ましい点に着目してのことです。ですから、エリートという言葉がある通り、…このエリートという言葉は、フランス語で「選ばれた人」という意味ですが…、「選び」といえば特権的な選ばれた人たちというイメージになってしまいます。
 しかし、聖書の中では「選び」の意味はそうではありません。神がイスラエル民族を選ばれるとき、こうおっしゃっています。

 「あなたの神、主は地の面にいるすべての民の中からあなたを選び、御自分の宝の民とされた。主が心引かれてあなたたちを選ばれたのは、あなたたちが他のどの民よりも数が多かったからではない。あなたたちは他のどの民よりも貧弱であった。」(申命記7:6-7)

 神は優秀な才能を選ばれるのではなく、むしろ逆で、目的のために無条件で人をお選びになり、その人物に必要な賜物をお与えになるのです。

 つまり、救い主イエス・キリストに至るまでの歴史をおおざっぱに言えば、その歴史はアブラハムの選びに始まり、その子孫イサク、ヤコブへと約束が受け継がれていきます。そしてヤコブからイスラエルの十二の部族が生まれますが、その中でもユダの部族が選ばれ、ダビデ王が生まれます。そして、そのダビデの子孫からイエス・キリストがお生まれになることは、ご存じのとおりです。

 つまり、この一本通った救いの歴史を描くために、たとえアブラハムの息子であったとしても、イサク以外の人物はほとんど詳しい記事もないままに聖書の舞台からは姿を消してしまうのです。

 くどいようですが、そうした選びの歴史は、神が自分の好みに合った人間をえり好みして、他の人たちを無視していく歴史ではありません。そうではなく、アブラハムを通してすべての国民がアブラハムによって祝福に入るためでした(創世記12:3)

 ですから、ガラテヤの信徒への手紙3章8節以下でパウロはこう述べています。

 「聖書は、神が異邦人を信仰によって義となさることを見越して、『あなたのゆえに異邦人は皆祝福される』という福音をアブラハムに予告しました。それで、信仰によって生きる人々は、信仰の人アブラハムと共に祝福されています。」

 救い主イエス・キリストを信じる信仰によって、わたしたちもまた救いの祝福にあずかるアブラハムの子供たちなのです。