2011年9月14日(水) ハイデルベルクって何ですか? 大阪府 K・Nさん

 いかがお過ごしでいらっしゃいますか。キリスト改革派教会がお送りするBOX190。ラジオを聴いてくださるあなたから寄せられたご質問にお答えするコーナーです。お相手はキリスト改革派教会牧師の山下正雄です。どうぞよろしくお願いします。

 それでは早速きょうのご質問を取り上げたいと思います。今週は大阪府にお住まいのK・Nさん、女性の方からのご質問です。お便りをご紹介します。

 「BOX190を楽しみにしています。求道中です。
 ハイデルベルクって何ですか? 人の名前ですか? どういう意味ですか?
 わたしはいま、人生寄り道、道草、回り道と、すごろくのごとく振り出しに戻ったり、うまくゴールができません。まさかという坂もあり、神さまにより頼み、ひとコマひとコマ進んでいるところです。」

 K・Nさん、いつも番組を楽しみにしてくださってありがとうございます。今回は『ハイデルベルク信仰問答』をお申し込みくださりありがとうございました。
 また機知に富んだお便り、楽しく読ませていただきました。

 さて、早速ですが、『ハイデルベルク信仰問答』について簡単にお話ししたいと思います。
 まず、ハイデルベルクという名称ですが、これは今日のドイツ連邦共和国にあるハイデルベルクという都市の名前に由来しています。このハイデルベルクはライン川とネッカー川が合流する辺り、ドイツ南西部に位置する町で、プファルツ選帝侯のお城とドイツ最古の大学、ハイデルベルク大学のある町として有名です。

 『ハイデルベルク信仰問答』が出版されたのは1563年ですが、その頃のハイデルベルクは先ほども名前を挙げましたが、プファルツ選帝侯の領地でした。選帝侯というのは、当時神聖ローマ帝国の皇帝を選ぶ選挙権を持っていた諸侯のことで、ハイデルベルク信仰問答が生まれたころには七人の選帝侯がいました。そのうちの一人がプファルツ選帝侯で、当時はもっとも大きな領地を支配していました、

 ところで、ヨーロッパに宗教改革が起こったのは、1517年、マルチン・ルターがヴィッテンベルクの教会の扉に95箇条の論題を掲げたことに始まると言われています。このルターの指導によって生まれたプロテスタント教会をルター派教会と呼びますが、ルターから始まった宗教改革運動は、フランス人のジャン・カルヴァンの手によってさらに徹底され深められました。このカルヴァンの流れをくむ教会を改革派教会と呼び習わしています。この宗教改革の時代よりも前の時代は、ローマカトリック教会が西ヨーロッパにおける唯一のキリスト教会でした。

 さて、『ハイデルベルク信仰問答』と深いかかわりのある人物はプファルツ選帝侯フリードリヒ三世です。フリードリヒ三世は、もともとはローマ・カトリックの家で育ちましたが、結婚相手であるブランデンブルク=クルムバッハ辺境伯の長女マリーの影響でプロテスタントの信仰を持つようになります。結婚してから9年後、選帝侯となる13年前の1546年ににプロテスタントに改宗しました。このフリードリヒ三世は後に熱心な改革派信仰を持つようになります。もっとも、フリードリヒ三世の言葉によれば、ルター派か改革派か、ではなく、神の言葉によって導き出された正しい信仰を持つようになったと言った方がよさそうです。

 話が前後しますが、このフリードリヒ三世が選帝侯となる二代前、つまりフリードリヒ二世の時代にプファルツ選帝侯領はルター派の信仰を表明する領地となっていました。当時は今の時代のような信教の自由はありませんでしたので、領主の信仰が領地に住む人たちの信仰と決められていました。つまり、フリードリヒ二世が表明した信仰がその領地に住む人々が選択できる唯一の信仰だったわけです。ちなみに、そのことが決められたのは1555年のアウグスブルグで開催された帝国会議ででしたが、それにちなんで、その取り決めを「アウグスブルグの和議」と呼んでいます。ただし、その時認められたのは、ルター派の信仰だけでした。ですから、当時のドイツでは領主が公に改革派信仰を表明することはできなかったわけです。

 さて、フリードリヒ二世の領地がルター派のプロテスタントになったことで、ハイデルベルクには立場の違うプロテスタントの神学者たちが大勢集まって来るようになりました。そうこうするうちに、聖餐式をめぐる理解の違いから論争が起こりました。論争は次のプファルツ選帝侯、オットー・ハインリヒの時代に激化します。そんな時代にプファルツ選帝侯を受け継いだのがフリードリヒ三世でした。フリードリヒ三世はルター派の神学者メランヒトンの助言を受けながら、領内の宗教改革を徹底させようとしますが、その様な中で生まれてきたのが、この『ハイデルベルク信仰問答』です。1562年に作成を命じ、1563年には第一版がドイツ語で出版されます。

 この『ハイデルベルク信仰問答』ですが、今でこそ、改革派信仰を表明する代表的な信仰問答書として知られていますが、最初から改革派信仰を表明することを目的として書かれたわけではありません。もちろん、その内容は改革派教会の信仰そのものであることは言うまでもありません。

 ですから、この『ハイデルベルク信仰問答』が出版された時には、物議をかもしました。というのは、先ほども触れましたが、当時の神聖ローマ帝国内では、領主が信じてよいのは、ローマカトリックの信仰か、ルター派の信仰か、どちらかでした。ところが、『ハイデルベルク信仰問答』はいくつかの点でルター派の立場とは違う信仰を表明していたからです。むしろカルヴァンの立場に立つ改革派信仰を表明するものとして、このような書物を出版したフリードリヒ三世は、帝国議会に召喚され、弁明が求められました。

 このことは信仰の問題であるとともに、フリードリヒ三世にとっては、政治的生命の問題でもありました。しかし、フリードリヒ三世は恐れることなく弁明し、この信仰問答書が人間の言葉に基づくものではなく、神の言葉、聖書に基づくものであることを大胆に主張しました。そして、もし、この問答書に誤りがあることを、聖書によって指摘されるのであれば、たとえそのことを指摘した人間がどんなに身分の低いものであったとしても、その指摘に自分は従うと表明しました。

 この大胆な発言には誰も反論できなかったそうです。

 この『ハイデルベルク信仰問答』は聖書の言葉の土台の上に立つという意味で、まさに神の言葉によって常に改革され続ける教会、改革派教会の信仰を表明した問答書なのです。

 内容に関しては、ぜひ、『ハイデルベルク信仰問答』を手にとってご覧ください。大きく三つの部分から成り立っていますが、それに先立つ有名な問い、「生きるにも死ぬにも、あなたのただ一つの慰めは何ですか」という言葉から問答は始まります。そして、この慰めの中で喜びに満ちて生き、また死ぬために、知るべきこととして三つのことを挙げて、三つの部分でそれぞれ展開します。その三つとは、「わたしの罪とその悲惨の大きさについて」。「どうすればその罪と悲惨から救われるのか」。そして「どのようにこの救いに対して神に感謝すべきか」ということです。

 あとはどうぞ、聖書と見比べながら、じっくり学んでみてください。