2011年9月21日(水) クリスチャンは冗談を言ってはいけないですか? 長野県 匿名希望さん

 いかがお過ごしでいらっしゃいますか。キリスト改革派教会がお送りするBOX190。ラジオを聴いてくださるあなたから寄せられたご質問にお答えするコーナーです。お相手はキリスト改革派教会牧師の山下正雄です。どうぞよろしくお願いします。

 それでは早速きょうのご質問を取り上げたいと思います。今週は長野県にお住まいの匿名希望さんからのご質問です。お便りをご紹介します。

 「クリスチャンは冗談を言ってはいけないのでしょうか。わたしは冗談を言うのが好きで、家族でも冗談を言いあっては、笑って過ごしています。クリスチャンは冗談を言ってはいけないとすると、考えてしまいます。
 どうぞその辺のところを教えてください。」

 お便り、ありがとうございました。果たして、聖書は冗談を禁じているのでしょうか、それとも、人が冗談を語ることを許しているのでしょうか、さっそくご一緒に考えてみたいと思います。

 まずはじめに、聖書の中に冗談を禁じる言葉があるのかないのか、その点をズバリ、見てみたいと思います。

 新共同訳聖書で「冗談」という言葉を探してみると、二回出てきます。一つは創世記19章14節ですが、主がソドムを滅ぼそうとしていることを知ったロトは、嫁いだ自分の娘たちの婿のところへ行ってこう言いました。
 「さあ早く、ここから逃げるのだ。主がこの町を滅ぼされるからだ」
 しかし、婿たちはそれを冗談だと思った、と聖書は記しています。

 この場合、ロトは冗談を言ったわけではなく、真面目に主が告げた言葉を取り次いだだけですが、内容があまりにも現実離れしていると思われてしまったために、冗談だと受け止められてしまった、という場面です。

 この場合、特に冗談を禁じているという個所ではありませんが、しかし、冗談というものがどういう性質のものであるかということ物語っていると思います。ここで使われている「冗談」という言葉は「笑う」という言葉と関係がある単語が用いられています。同じ言葉は「からかう」とか「笑い者にする」という場合にも使われます。

 たとえば、サラはイシュマエルが自分の子イサクをからかっているのをみて、アブラハムに訴えますが(創世記21:9)、その場面で使われている「からかう」という言葉が、先ほどの「冗談」という言葉と同じです。

 人をからかったり、笑い者にする、という意味での「冗談」が、隣人愛に反することであることは、何の説明の必要もないことです。

 もう一個所、「冗談」という言葉が出てくるのは、エフェソの信徒への手紙5章4節です。

 「卑わいな言葉や愚かな話、下品な冗談もふさわしいものではありません。それよりも、感謝を表しなさい。」

 ここでは「冗談」という言葉が単独で出てくるのではなく、「卑わいな言葉」や「愚かな話」と並んで「下品な冗談」という言葉が出てきます。そして、それらはクリスチャンにはふさわしくないものだ、と記されています。

 さて、ここで使われている「下品な冗談」という言葉ですが、ギリシア語では一つの単語、「エウトラペリア」という言葉が使われています。しかし、日本語訳ではわざわざ「下品な」という修飾語をつけて翻訳しています。では、「上品な冗談」というものがあるのかどうかは別ですが、少なくとも「卑わいな言葉」や「愚かな話」とセットで出てくる「冗談」が、よい意味であるはずがないということは明らかであると思います。

 そして、この「エウトラペリア」という単語は、実は「エウ」という言葉と「トラペリア」という言葉から成り立つ合成語です。「エウ」というのは「良い」という意味を表す言葉で、例えば、「福音」を表す「エウアンゲリオン」の「エウ」は「良い知らせ」という意味です。
 下の方の「トラペリア」は「振り向く」とか「向く」という動詞から来ています。
 つまり、本来の意味はそんなに悪い意味の単語ではなかったはずですが、しかし、使われる文脈によっては悪い意味にも使われるということです。エフェソの信徒への手紙では、前後の文脈から明らかに悪い意味での言葉です。「下品な冗談」「下世話」ということでしょう。

 では、エフェソの信徒への手紙では、そうした「下品な冗談」を禁止しているのかというと、結論からいえば確かに禁じてはいるのですが、パウロの表現の周到さに注意を払いたいと思います。

 まず、パウロは「卑わいな言葉や愚かな話、下品な冗談は禁止だ」とは言わないで、「ふさわしくない」と語ります。禁止するのではなく、クリスチャンとしての品性に訴えかけて、そうしたことから自分で離れるように話を持って行っています。
 そればかりか、パウロは「では何を語るべきか」ということも語っています。「それよりも、感謝を表しなさい」とパウロはクリスチャンが積極的になすべきことをも語っているのです。ただ何かをしないということがクリスチャンの生き方ではなくて、何かを積極的にすることで神と人への愛を表すことがクリスチャンの生き方なのです。

 さて、以上見てきた例は、「冗談」の持っている悪い側面についてでした。つまり、人をからかったり、下品な話題であったり、そういう冗談について、聖書が禁じていることは言うまでもないことです。一般的な言い方でいえば、どんなことであれ、神と人に対する愛から離れるような行いは、どれも聖書が禁じていることです。

 しかし、きょうお便りをいただいたのは、きっとそういう下品な冗談や悪意に満ちた冗談のことではないと思います。ウィットに富んだ話題で人を笑わせたり、緊張をやわらげたり、そう言うことまでも聖書が禁じているわけではありません。

 ただし、語る動機や目的が正しくても、どんな冗談もそれで受け入れられるとは限らないことも頭に入れておきべきです。
 もちろん、気心知れた家族や仲間内では、どんな冗談も笑って済まされることですが、すべての人が同じ反応を示すとは限りません。育った環境や文化の違いで、一言の冗談が相手を深く傷つけてしまうこともあります。

 ですから、すべての冗談が禁じられているのではないのと同様に、軽い冗談だからと言って、そのすべてが許されるわけでもなく、またそのすべてが誰にでも受け入れられるというわけでもありません。大切なことは、そういう場に応じた冗談を上手に語れるかどうか、そこが大切な点だと思います。