2011年9月28日(水) 宗教と芸術鑑賞について 神奈川県 Teaさん(最終回)

 いかがお過ごしでいらっしゃいますか。キリスト改革派教会がお送りするBOX190。ラジオを聴いてくださるあなたから寄せられたご質問にお答えするコーナーです。お相手はキリスト改革派教会牧師の山下正雄です。どうぞよろしくお願いします。

 この番組も今日で最終回となりました。最終回のご質問は神奈川県にお住まいのTeaさん、女性の方からのご質問です。お便りをご紹介します。

 「いつも番組を楽しく聴かせていただいています。
 さて、先日、東京国立博物館で開催されている『空海と密教美術展』を見てきました。出展作品のほとんどが国宝や重要文化財ということもあって、圧倒されるような美術展でした。
 思ったのですが、これらの作品はどれも真言密教の信仰と深いかかわりを持つもので、信仰する人にとっては、単なる文化財や美術作品ではないはずです。
 そこで、質問ですが、こうした特定の信仰と深い関わりのある展示物をクリスチャンの人たちはどう受け止めていらっしゃるのでしょうか。このような宗教が関る美術展には行ってもいけない、と教えられるのでしょうか。それとも、単なる芸術作品としてだけ鑑賞しているのでしょうか。
 もし、仮にこれがキリスト教の美術展の場合だとしたら、クリスチャンの方たちは特別な思いで展示物をご覧になるのでしょうか、それとも、あくまでも芸術作品の一つとして鑑賞されるのでしょうか。
 そのあたりのことを教えていただきたいと思います。よろしくお願いします。」

 Teaさん、お便りありがとうございました。

 芸術と宗教は、多くの作品で交差している場合が多いように思います。それは仏教でもキリスト教でも、その他の宗教でもそうだと思います。その場合、芸術が宗教を生み出しているのではなく、宗教が芸術によって表現されたり、宗教が芸術の向上に寄与したりしています。
 また、宗教によっては礼拝の対象となる像などは、その時代を代表する最高の技術と芸術が用いられていることがしばしばです。

 そう言う意味では、宗教性を抜きにして、そのものの芸術性だけを鑑賞するということは、不可能ではないにしても、それでは十分に作品を理解したということにはならないような気がします。
 そう言ってしまうと、そうした宗教にかかわる作品は、その宗教を信仰する人でなければ十分に理解できないということになってしまい、言い換えれば、信仰者だけがその作品の持つ芸術性を味わうことができるということになってしまいます。

 これは、ある程度真理であるように思います。その宗教が生み出した作品はその宗教を信じる人がもっともよく味わうことができるでしょう。

 さて、ご質問に戻りますが、クリスチャンは他の宗教と関係がある芸術作品にどのような態度で接するのでしょうか。

 一つの極端な態度は、それらを芸術作品とはみなさないで、宗教的なものとみなし、これに接する態度です。
 確かに、その作品を生み出した宗教の人たちにとっては、それは、ただの芸術作品ではなく、場合によっては信仰の表明そのものですから、それに接するクリスチャンも、そのようにそれらに接しなければならないと考える態度です。
 その場合、クリスチャンにとっては、このような態度は否定的に作用します。つまり、それらはまことの神とは関係がない、偽りの宗教から生み出されたものであるから、こういうものに関りを持ってはならないという態度です。従って、芸術作品と割り切って鑑賞することすら許されないと考える態度です。さらに度が進めば、これらの偶像は破壊すべきである、とさえ考える者も出てくることでしょう。
 さすがに、現代社会で、そこまで極端な態度をとる人はいないにしても、異教の宗教的な作品を一切目にしない、手にしないというクリスチャンが一方にいることは確かです。

 もう一方の極端な態度は、それらの宗教的な作品を、まったくの芸術作品としてだけ扱う態度です。
 しかし、それは先ほども見てきたように、宗教的な作品から宗教性を抜きにして芸術だけの要素を取り出すことは困難なことですし、また、そうすることができたとしても、それでは作品を理解できたことにはならないからです。芸術作品というのはそれだけで存在するものではなく、作者の信条や思想と表裏一体になっているからです。とりわけ宗教的な作品ではそうだからです。

 では、その両極端な態度を別とすれば、どのような態度でクリスチャンは他の宗教の芸術作品と接しているのでしょうか。

 まず、キリスト教以外の芸術を、すべて異教の宗教や非キリスト教的な思想から生み出されたものであるとして目にしないというのであれば、そのような態度は現実的に不可能と言わざるを得ません。なぜなら、この世の中の芸術作品の大半はキリスト教とは無関係なものがほとんどだからです。また、そのような区別は作品を見ただけでできるというわけでもないからです。いちいち、作者の信仰を確かめた上で、その作品を鑑賞するというのは現実的ではありません。

 とくに宗教性の強い作品に限って、それを鑑賞しないというにしても、それを生み出した宗教を含めて理解し、鑑賞することと、その作品を信仰の対象として見ることとは違うということを理解する必要はあるように思います。

 それらを芸術作品ではなく信仰の所産として扱っている人には申し訳ありませんが、キリスト者としてできる作品に対する接し方は、その作品を生み出した背景にある様々な信仰に対する理解までであって、その信仰を共有することではないと思います。そう言う意味では、その作品を生み出した人たちから言わせれば、不完全な作品鑑賞であると言われても仕方がありません。

 それは、キリスト教信仰を持たない人が、キリスト教の芸術作品を根底から理解しきれないのと同じですから、これは仕方のないことです。しかし、どんな宗教作品であっても、それらを生み出しているのは人間なのですから、人間が抱えている共通の問題を、それらの作品に見出し、鑑賞することはどの宗教のどの宗教作品にも可能であるように思います。また、そういう鑑賞のありかたは、どの人にとっても求められていることではないかと思います。また、そうすることが芸術鑑賞の真髄ではないかと思います。

 最後に、クリスチャンが他の宗教作品を鑑賞する上で特に気を使っていることについて、触れておきたいと思います。

 それは、美術館の特別展示ではなく、他の宗教施設に行って、そうした作品を鑑賞する場合に気を付けていることですが、一つは、それを信仰の対象として重んじている人がいるという、その人の思いを軽んじないということです。これは当たり前のことです。
 もう一つのことは、その様な場所にいることで、他のクリスチャンをつまずかせないということです。もし他の人をつまずかせるのでしたら、そのような鑑賞の機会を諦める、という場合もあるということです。