2006年6月25日(日)「喜ぶ人と共に喜び」

 おはようございます。山脇栄子です。

 今朝は聖書のローマの信徒への手紙12章14〜15節をお読みしたいと思います。
 「あなた方を迫害する者のために祝福を祈るのであって、呪ってはなりません。喜ぶ人と共に喜び、泣く人と共に泣きなさい。」この聖書に書かれている喜ぶ人と共に喜び、泣く人と共に泣きなさいという聖句は、清和学園での永い教師生活を続けていく上の指針として、心の中に掲げてきた言葉です。

 入学したばかりの一年生、社会に羽ばたこうとしている三年生の一人一人と共に喜び、共に泣き、一緒に学んで行こうと決心した教師生活でしたが、共に泣き、共に喜ぶということはとても簡単に一言で言える事がらではなく、非常に難しく困難でした。誰かがすばらしい結果を出した、よかったね・・・誰かが悲しい事がらがあった、困ったね・・・だけではなく、本当に相手の身になって、共に喜び、共に悲しむことになっているだろうか。友達の喜びを共に喜ぶといいながら、心の中ではねたましい気持ちが頭をもたげていたり、悲しみに打ちひしがれている友に対して、こんな悲しいことがなくてよかったと思う心が、どこかにありはしないでしょうか。

 私の母は93才を過ぎました。奈半利川に沿ったモネの庭の近くで、自然豊かな田園風景の中に建っている中芸介護センター(ヘルシーケア ナハリ)でお世話になっています。ある日のこと私は、そこから車で20分位山に入った北川温泉のある実家に帰る途中で母親の所に寄って、山菜採りに実家に行ってくるからね。また、帰る時に寄るからと言って施設を出ました。

 思いがけず山菜採りに夢中になって、すっかり帰る時間が遅くなり夕方になってしまいました。帰る時に寄るからと言ってったので顔だけでも・・・しかし今はちょうど夕食の時間だからかえって悪いかなと思いながら母のいる階でエレベーターを降りると、その前のソファーで看護師さんにつき添われて、すっかり力を落としてオロオロしている母の姿が目に飛び込んできたのです。

 何があった!これは大変!どうしたのと思わず駆け寄った私に、母は「ああ生きちょった、よかった」と逆に母の方が安心しているのです。つまり私の帰りが遅いので実家に電話したり、隣り近所に電話しても誰も私の姿は見ていないという返事に、何か事故にでも遭ったのでは・・・とすっかり力を落としてしまい、食事もできず、息絶え絶えになっていたのです。

申しわけないなーと思いながらも、そんな母親のそばで気の遠くなるようなお世話をして、励まして下さっている看護師さんの姿に本当に頭の下がる思いがしました。90を過ぎた母が、60才を過ぎた娘を心配する姿は何か滑稽ですが幾つになっても子供は子供。しかし、そんな母の心を察して、じっとお世話をしつき添っていてくれて、やさしい笑顔で話しかけてくれている看護師さんの母に対する態度は、仕事だからそうしているのではなく、本当に母(患者)を愛し、その人の喜びや悲しみを、共に担っている姿に感動を覚えました。そして、そんな人にお世話になっている母親の日常の生活を考え、安心して私もこの方のように、もう一度「喜ぶ人と共に喜び、泣く人と共に泣きなさい」という聖書の言葉を実践できるようになりたいと祈りながら、帰路につきました。