2007年2月11日(日)神がいるなら

おはようございます。山下正雄です。
「神がいるなら見せて欲しい」…そんなことをよく耳にします。もちろん、そう言っている本人は、それが不可能なことを承知で言っているのです。もし、そこでわたしがポケットから小さな箱を取り出してきて、「はい。これが神様です」などと言ったとしても、当然信じるはずもありません。きっとその小さな箱をチラッと横目で見てこう言うに違いありません。
「ふん。そんな小さな箱に何ができるんだ」
そして、神様ならこうあるべきだという話をとうとうと話し始めることでしょう。
しかし、考えてもみるとおかしな話です。神様などいないと思っている人が、神様についてこうあるべきだということを語って一体なにになるのでしょうか。神様とはこうあるべきだと語っておきながら、その神様がいないと否定すれば、それは自分の空想が意味がないことをを認めているようなものです。
そもそも神様とはいかなるお方なのか、ということは人間が空想して決め付けるべきことではありません。神は神ご自身がご自分をあらわす限りにおいてしか知ることができないのです。神が神ご自身についてあらわされることをキリスト教会では「神の啓示」と呼んでいます。神がいるかいないかは、人間の空想によって判断すべきことではなく、神が啓示によってお示しになることなのです。

ところで、新約聖書のヘブライ人への手紙の1章1節2節にこう記されています。
「神は、かつて預言者たちによって、多くのかたちで、また多くのしかたで先祖に語られたが、この終わりの時代には、御子によってわたしたちに語られました」
旧約聖書の時代には神は預言者たちの口を通してご自分について豊かに語ってこられました。しかし、最終的に神はご自分の御子イエス・キリストを通してもっと豊かにご自身を啓示なさったというのです。言い換えるなら、イエス・キリストを抜きにして本当の神を知ることはできないということです。イエス・キリストを脇へ置いた神知識は中途半端ということなのです。
しかし、いきなりそう言われてもピンと来る話ではありません。旧約聖書に慣れ親しんできたヘブライ人への手紙だからこそ、そう言い得るのかもしれません。

新約聖書のヨハネによる福音書には同じ事柄がもう少し人間の感性に訴えるような言葉でこう記されています。
「わたしたちは皆、この方の満ちあふれる豊かさの中から、恵みの上に、更に恵みを受けた。律法はモーセを通して与えられたが、恵みと真理はイエス・キリストを通して現れたからである。いまだかつて、神を見た者はいない。父のふところにいる独り子である神、この方が神を示されたのである」(ヨハネ1:16-18)

神を見るという経験は誰もすることができない経験です。ですから、「神がいるなら見せて欲しい」と言われても、誰も神を見せることができないのです。しかし、ヨハネによる福音書の記者は、イエス・キリストと出会ったときに父なる神の姿を今まで以上に鮮明に知ることができたと言うのです。「わたしたちは皆、この方の満ちあふれる豊かさの中から、恵みの上に、更に恵みを受けた」とヨハネは記しています。
「神がいるなら見せて欲しい」という願いは、結局のところ、満ちあふれる豊かさの中から、恵みの上に、更に恵みを受けたときにかなえられるものなのです。そして、このことはイエス・キリストによってだけ実現するものなのです。
「神がいるなら見せて欲しい」と願うならば、ぜひイエス・キリストのもとを訪ねてみてください。