2007年2月18日(日)神の恵みだけが頼み

おはようございます。山下正雄です。
イエスの弟子には二人の対照的な弟子がいます。一人はシモン・ペトロです。ペトロはガリラヤ湖で魚を獲ることを生業としていた漁師です。福音書の中ではいつも先頭に立っている弟子のように描かれています。もう一人の人物はイスカリオテのユダです。福音書がこのユダのことを描く時には、まだ事件が起る前から「裏切り者のユダ」というレッテルを貼っています。もちろん、ユダと生活を共にしたほかの弟子たちは、後にユダがどんなことをしでかすのかは知る由もありませんでした。ユダは弟子たち一団の会計を任されている人物でしたから、能力的には優れた人物で信頼もあったのでしょう。

さて、ペトロはキリストの最後の晩餐の席上で勇ましいことを言いました。
「たとえ、みんながあなたにつまずいても、わたしは決してつまずきません」「たとえ、御一緒に死なねばならなくなっても、あなたのことを知らないなどとは決して申しません」(マタイ26:33,35)
しかし、キリストが予告したとおり、ペトロは鶏がなく前にイエスと自分との関係を三度も否定しました。自分も捕らえられることを恐れたからでしょう。捕らえられたイエスを見捨てて逃げ去ってしまったのです。
イエス・キリストはずっと前に弟子たちにこんなことをおっしゃったことがありました。
「人々の前でわたしを知らないと言う者は、わたしも天の父の前で、その人を知らないと言う」(マタイ10:33)
このキリストの言葉からすると、ペトロのしたことは重い罪と言わざるをえません。何しろ天の父の前で「お前のことなど知らない」と否定されてしまうのですから、これは大変です。しかし、それでも、ペトロはイエスの弟子でありつづけることができたのでした。

他方、イスカリオテのユダは、銀貨30枚と引き換えに祭司長や律法学者たちにイエスを引き渡すことを約束しました。こうしてユダはイエス逮捕の機会をつくったために後々まで「裏切り者」と呼ばれるようになりました。ユダはイエスが処刑されることを知り、自分のしたことを後悔して自殺をしてしまいます。残念ながらユダはイエスの弟子でありつづけることはできませんでした。

さて、ペトロとユダの違いは何だったのでしょう。確かに「イエスなど知らない」と言って、イエスと自分との関係を否定するのと、イエスを売り渡してしまうのとでは罪の大きさが全然違います。しかし、それとても神の目から見れば五十歩百歩の違いです。自分の罪の大きさを棚に上げて、人の罪の大きさを誰も非難できないのです。
罪の自覚と言う点でも、二人に大きな違いはありません。ユダは正に自分のしでかしたことの重大さに気がついて後悔したのです。日本人流に言えば死んでお詫びをしようとしたのです。罪深い自分など生きている価値がないと思うくらい、自分の罪を自覚したのです。ペトロもイエスを否定した直後に、イエスが自分を見つめる視線を感じて、外に出て激しく泣いたのです。自分の弱さや罪深さを自覚したからです。
では、この二人の根本的な違いはどこにあったのでしょうか。それは、こんな点にあったのです。
ペトロは自分自身の罪深さに失望はしましたが、しかしその自分を受け容れてくださる神の赦しと慈しみに信頼しきったのです。罪人であるからこそ救おうとなさる神の愛を信じきったのです。人間にはできないが、神は何でもおできになることを信じて自分を委ねたのです。
自分で自分を裁いてはいけません。自分に失望したときにこそ、神の愛を信じてよいのです。