2007年3月4日(日)なぜ空しいのか

初めまして。後登雅博です。旧約聖書に「コヘレトへの言葉」という書物があります。この書物は、次のように始まります。「コヘレトは言う。何という空しさ。何という空しさ、全てはむなしい」聖書の中に、このような否定的な言葉が含まれているのに驚かれるかもしれません。

さて、「空しい」という言葉ですが、もともとは、「蒸気」や「息」という意味です。ここから「価値のないもの」「無意味なもの」という意味が出てきます。消えてなくなる空しいものです。しかし、一方で次のように考えることも出来ます。蒸気や息はすぐに消えてしまいますが、存在しないというわけではありません。息は目に見えませんが、口に手をかざせば吐く息を感じることが出来ます。目に見えませんが確かに存在するのです。
コヘレトがいう「空しい」とは、蒸気や息のように、すぐに消えてしまうという空しさです。しかし、初めからあってもなくてもどちらでも大差のないもの、というのではありません。初めから価値がなくて空しいということではないのです。むしろ、確かに存在するのに顧みられることがない、という空しさです。

私達の世界には、紛れもなく神が存在しておられます。いや、神がおられるので、世界が存在し、その中に私たちもいるのです。しかし、罪のために、世界を造られた神を信じることが出来なくなっているのです。神こそ、確かに存在しておられるかたなのに、顧みられていません。これこそが、コヘレトの言う「空しさ」なのです。神を認めないことが「空しい」ことなのです。なぜなら、神を認めないなら、自分のことについてもよく分からなくなるからです。人間は神によって創られました。しかし、神を認めなくなった結果自分がどこから来たのかが分からなくなりました。なぜ生まれてきたのかが分からなくなりました。その結果、人生の目的も分からなくなってしまいました。これが、コヘレトの言う「空しさ」です。

そして、一番大事な神について分からないままに、私たちは過ぎ去っていくのです。神について知らず、蒸気のように消えていく人生ほど空しいことはありません。そうではなく私達は神について知らなければなりません。そして、神が私達をどう見ておられるのかを知らなければなりません。私達は、神の目から見なければなりません。神の目から見た私達は、決して空しい存在ではありません。いてもいなくても大差のない存在ではないのです。むしろ、なくてはならない存在なのです。

神の目から見るとは、神の国から現在を見るということです。神の国は、キリストが再びこられることによって完成します。その時、私達は神と共に住むことになります。神の国へと向かう私達の歩みは、決して空しくはないのです。神の国から、現在を見つめるなら、今あるものは神が与えてくださったもの、と考えることが出来ます。今あるものが乏しく、蒸気のように空しいものにしか見えなくても、それが私達にとって十分なもの、神からの贈り物なのです。骨折り仕事にしか思えないものが、実は神が与えてくださった祝福なのです。それらが労苦であり、空しいと感じるのは、神からのものであるということを忘れた時です。

私達の人生に労苦は絶えないかもしれません。しかし、一方で不必要な労苦はしなくて良いのです。不必要な労苦とは何でしょう。それは、神以外のものを求めることです。神以外のもので心を満たそうとすることです。私達は、その気になれば、今もっている以上の物を手に入れることが出来るかもしれません。しかし、それが神を抜きにした知識やこの世のものであったとすれば、その分だけ悩みや痛みが増すのです。そうではなく、神を求めるということに労苦したいと思います。神と共に行く人生は、決して空しくはないからです。