2007年4月8日(日)甦ったイエス

おはようございます。山下正雄です。
きょうはキリスト教会でもっとも大切な記念日です。イエス・キリストが死者の中から甦ったことを記念する復活祭の日です。

死者が甦るなどということ自体馬鹿げています。何かの弾みで息を吹き返したという話なら、この世の中にないとは言えません。しかし、墓に葬られて3日もたった人が甦るというのは普通はありえないことです。しかも、その命が永遠に続くともなれば、もうこの世の常識では考えられないことです。
そんな感想を抱くのは、何も現代人ばかりではありません。キリストのことを述べ伝えていたパウロの話を、アテネの人たちは興味をもって最初は耳を傾けていました。ところが、そのキリストが死者の中から甦ったと聞かされるや、ある者たちはあまりのばからしさにその場を立ち去ったと聖書には記されています。普通に考えれば死者の甦りはやはりありえないことなのです。
しかし、考えてもみれば、そのありえない出来事を命を懸けて述べ伝えている人がいると思うと、それもまたありえないことです。しかし、現にキリストの弟子たちは命を懸けて復活のキリストを宣べ伝えたのです。嘘だと分かっていて、そんなことに命をかける人はいないでしょう。そうであればこそ、逆に弟子たちの命を懸けた熱意からキリストの復活の話はリアリティさを感じるのです。

キリスト教会は年に一度、キリストの復活を覚えて、特別な日としています。英語ではその日をイースターを呼んでいます。きょうはそのイースターの日なのです。

しかし、キリスト教会がキリストの復活を覚えるのは一年に一度だけではありません。キリスト教会は始まった頃から、日曜日に礼拝を守って来ました。なぜなら、日曜日はイエス・キリストが復活した日だからです。それまでのユダヤ教会では、一週間の最後の日を安息日と定めていました。そして、安息日を守ることはモーセの十戒にも定められていて、動かすことのできないものと考えられていました。しかし、キリスト教会は安息日の他に日曜日にも集会を持つようになり、やがては、安息日を土曜日から日曜日へと変えてしまったのです。そんな大胆なことができたのも、それは日曜日がイエスの復活された日だったからです。

イエス・キリストの復活を合理的に説明することは2000年前も今も不可能なことだと私は思います。しかし、十字架につけられたイエスを見捨てて逃げ去った弟子たちを再び立ち上がらせ、礼拝の日にちさえも変えさせてしまったと言う事実の中に、弟子たちが体験した「何か」の力の大きさを感じざるを得ません。そして、それは弟子たち自身が語っているように、「復活のイエスとの出会い」という特殊な体験からしかうまく語ることのできないものなのです。
もちろん、キリスト教会がキリストの復活を宣べ伝え続けてきたのは、復活の事実があったのかなかったのかという不毛な議論のためではありません。そうではなく、もっと大きな問題のためなのです。それは人間の命にかかわる問題だからです。もちろん、聖書が言う「命」とは、ただ息をして心臓が動いているという命のことではありません。命そのものをお造りになった神の前で生かされている命の問題です。この地上にあっても、この地上を離れても、いつまでも神の前で生かされている永遠の命を保証するために、キリストは死から甦られたのです。聖書はこう言っています。

「罪が死によって支配していたように、恵みも義によって支配しつつ、わたしたちの主イエス・キリストを通して永遠の命に導くのです」(ローマ5:21)