2007年8月26日(日)滅びではなく救いを

おはようございます。山下正雄です。
聖書の教えが一瞬にして分かる言葉を挙げるとすれば、間違いなくヨハネ福音書3章16節が一番の候補に挙がるでしょう。

「神は、その独り子をお与えになったほどに、世を愛された。独り子を信じる者が一人も滅びないで、永遠の命を得るためである」

実際、この短い言葉こそ福音の中の福音と呼ばれるにふさわしい言葉です。ほとんど何も解説を必要としないほどに明白な内容です。
この短い言葉は「このように神は世を愛してくださった」と始まるのです。神はご自分がお造りになった世界をこよなく愛していらっしゃいます。まず、その一行からして慰めに満ちています。

人の心には誰にもいえない良心の呵責というものがあります。ときとして良心の声は自分自身を責め、絶望の淵へと追いやることさえあるのです。普段は心の奥深くに閉じ込めておいたそうした思いが、人生の厳粛な場面でひょいと顔を覗かせ、自分が果たして神の裁きに耐えられるだろうかと思わせるのです。真面目に人生を考える人ほどその思いは強いでしょう。普段はそんなことに無頓着に見える人でさえ、不安を覚える時があるのです。

しかし、ヨハネ福音書が伝える言葉は、第一に神の呪いではなく神の愛なのです。
「このように神は世を愛してくださった」
「このように」とはどのようにでしょうか。
それは「その独り子をお与えになった」という点にもっとも鮮明に現われているのです。

自分自身を眺めていても、また、自分を取り囲む世界を眺めていても、人生はわからないことだらけです。自分自身の矛盾した思いに悩まされたり、自分を取り囲む世界に失望したりの連続です。悪人が栄える一方で善人が迫害されたり、弱い者がむしり取られたり、理想とは浦原の世界です。罪に満ち溢れた世界に神の愛を感じようとしても所詮は無理なのです。ですから、多くの人は「神も仏もあるものか」と嘆いたり「人生は不条理だ」と諦めてしまうのです。

しかし、聖書は「神がその独り子をお与えになった」ということの中に、神の愛がもっとも満ち溢れていると教えているのです。神がイエス・キリストをお遣わしになったのは、このにっちもさっちもいかない世界に滅びを宣言するためではありません。にっちもさっちも行かない世界だからこそ救いをもたらそうとなさったのです。神はご自分の愛する独り子を犠牲にしてまでも、この世が救いに与ることを望んでいらっしゃるのです。この聖書の言葉はそう宣言しているのです。それほどまでなさる神の行動に、神の愛がもっとも鮮やかに示されているのです。
「独り子を信じる者が一人も滅びないで、永遠の命を得るためである」
この聖書の言葉は信じるということによってだけ、受け取ることのできる言葉です。そもそも「愛」とは信じることです。疑いの心ではどんな愛も受け取ることはできません。神はご自身の愛を信じる心で受けとめるようにと、わたしたちに語りかけてくださっているのです。