2007年10月7日(日)愛は律法を全うする

おはようございます。山下正雄です。
キリスト教の生き方を一言でまとめた言葉をあげるとすれば、わたしはこの言葉を挙げます。ローマの信徒への手紙13章8節の言葉です。

「互いに愛し合うことのほかは、だれに対しても借りがあってはなりません。人を愛する者は、律法を全うしているのです」

高校時代に習った倫理社会の授業で、「キリスト教は愛の宗教である」と習った覚えがあります。そのときすでにクリスチャンであったわたしは、生意気にも、ほんとうにそうだろうかと思いました。そんな一言でキリスト教を軽々しく言い表すことができるだろうかと、むしろ反感を抱きました。
あれから30年以上の歳月が流れる中で、やはり「キリスト教は愛の宗教である」と確信するようになりました。キリスト教が愛の宗教であるとは、二重の意味でそうなのです。第一にキリスト教は神がわたしたちを愛してくださったということを教える宗教です。神の愛がキリストの生涯を通してもっとも明らかに示されたからです。そのことを信じて、苦しい時も楽しい時も神の恵みに信頼して歩む宗教です。神の愛に応えて、神を愛する宗教です。
「キリスト教が愛の宗教である」というもう一つの意味は、神の愛に生かされた者が、キリストを模範として愛することを学ぶ宗教だからです。神から愛されたがゆえに、愛することを知った者の宗教です。人を愛することは簡単なことではありません。それができるかどうかは別としても、イエス・キリストのように人を愛することが神の御心であると信じる宗教です。

さきほど引用した言葉は、さらにこう続きます。
「『姦淫するな、殺すな、盗むな、むさぼるな』、そのほかどんな掟があっても、『隣人を自分のように愛しなさい』という言葉に要約されます。愛は隣人に悪を行いません。だから、愛は律法を全うするものです。」

ユダヤ人の理解によれば、神の定めた掟は全部で613あるといわれています。「〜してはならない」とする禁止の命令が248、「〜しなさい」と積極的に命じる戒めが365、合わせて613です。
キリスト教はイエスの教えにならって、それらすべての掟を「愛」という視点から捉えなおしたのです。イエスの教えにならって神の求めている生き方とは愛することだというのです。いえ、イエス・キリストがそのように言葉で教えたからと言うばかりではありません。イエス・キリストがそのように生涯を生き抜いて、ご自分の愛を弟子たちに注がれたからです。

愛とはただ単に悪を行わないという消極的な生き方にとどまりません。悪を行うのは、他人に対して関心がないからです。他人がどうあれ、自分に対する関心が最も優先されるとき、人は正しい生き方を忘れるのです。愛はその反対です。他人に対する関心を抱き続けることです。興味本位のおせっかいではありません。あらゆる感性を働かせて、その人の幸せを願う関心です。愛するがゆえに悪を控えるというにとどまりません。むしろイエス・キリストはこうおっしゃいました。

「だから、人にしてもらいたいと思うことは何でも、あなたがたも人にしなさい。これこそ律法と預言者である。」(マタイ7:12)

それは自分に向かっていた関心を目の前の人に向けることです。他人を甘やかすことを勧めているのではありません。関心のあるところに愛は生まれるのです。
神はご自分の御心が行われることを望んでいらっしゃいます。その神の御心、神の律法は愛することを通してまっとうされるのです。