2008年10月26日(日)居るべき場所に帰る

おはようございます。山下正雄です。
今月は聖書の魅力についてわたしなりに思うところをお話して来ました。前にもお話しましたが、わたしが聖書をはじめて手にしたのは16歳のときでした。キリスト教について知りたかったからでもなく、宗教的な何かを求めてという動機でもなかったのです。気がつくとすっかり聖書の魅力にとりつかれて、一気に読んでしまいました。
それは今にして思えば、人間が共通して抱えている陰の部分を聖書の中に見出したからではないかと思います。

わたしは中学の頃から人と同じことは嫌だという反骨精神はありましたが、しかし、これといって積極的に何かを生み出していく力もなかったのです。それで中学は卒業してみたものの、あまり将来についての希望に胸を膨らませるということもありませんでした。
16歳にもなれば大人の世界の入り口に差し掛かる時期です。大人からは「もう子供ではないのだから」と口癖のように言われ、自分でも子ども扱いされれば気分を害する年頃です。それでいて、世の中のことはおろか、自分のことすら何一つとして満足にできない自分に苛立ちを覚えて過ごしていたのです。

聖書の描く世界、特に旧約聖書が描く世界は大人の世界ですが、しかし、それは理想が思い通りに実現する世界では決してないのです。人間の陰の部分が色濃くうごめく世界です。
実際に最初から最後まで聖書を読みはしましたが、ほとんど肝心なことは何一つとして分かってはいなかったと思います。ただ、人間とはなんと強情で罪深い存在かということは自分自身の姿と重ねて深い共感をもって読むことができました。
もちろん、そうした人間が持っている陰の部分に対する共感だけが、聖書から受け取ったメッセージという訳ではありませんでした。聖書について何一つ分かっていなかった自分ですが、もう一つ聖書から聞き取ったメッセージがあります。それは、たとえ聖書が描く人間の陰が現実の人間の姿だとしても、それが本来の人間のあるべき姿では決してないということでした。

旧約聖書の中には神を何度も裏切るイスラエル民族に対して、神が預言者の口を通して、ご自分に立ち返るようにと何度も呼びかける言葉が出てきます。この言葉にわたしは動かされたのです。
本来自分が居るべき場所に戻ってこそ、あらゆる矛盾や葛藤から解放されるのです。天地万物をお造りになり、歴史を導いておられる神のもとに立ち返ってこそ、新しい出発を始めることができる、そうわたしには聞こえたのです。

本来居るべき場所にいないとすれば、何をしてもうまくいかないのは当たり前のことです。本来居るべき居場所にいなければ、不安がおそってくるのは当然です。それでも、なお戻ろうとしないのが人間です。旧約聖書の民もそうでした。そして、その聖書を読んでいるわたし自身がまさにそうでした。
次の年の春に初めて教会に足を運びました。
ずっとずっと抵抗をつづけて粋がっているという選択もあったかもしれません。もっと遠回りをしてから自分の居るべき場所に戻るという生き方も良かったかもしれません。しかし、それ以上頑張ってみたところで、結論はすでに聖書の中に示されていたのです。

今まで何回かにわたって聖書についてお話して来ましたが、わたしの願いは聖書を通してすべての人が自分の本来の居場所について思いをめぐらせることです。