2009年2月15日(日)助け合う教会

おはようございます。山下正雄です。
キリスト教会の礼拝に初めて行って戸惑うことの一つは、献金ではないかと思います。どこの教会の礼拝でも大抵はそうだと思うのですが、礼拝の時間のどこかで献金を集める袋がまわってきます。礼拝に与る信徒が自分の心に決めた金額を自由に献げる献金です。初めて礼拝に行って、献金袋が回ってくると本当にドギマギとしてしまいます。慌ててお財布の中を探し回る自分の姿がどんな風に周りの人に映るのかを考えると、余計に気まずい気持ちになってしまいます。そこで、教会のほうでも気をつかって「初めての方はどうぞ献金の袋が回ってきても、そのまま隣りの方に渡して下さい。」とアナウンスするところもあるようです。しかし、そうは言われても、見栄を気にする人にとっては、相当に居心地の悪い時間ではないかと思います。もっとも、本人が気にするほど、周りの人も誰がどうしたかまで観察している人もいないというのも事実です。

さて、「使徒言行録」という新約聖書の中の書物を読むと、キリスト教会が始まったばかりの頃の様子がとても印象的に描かれています。
「信じた人々の群れは心も思いも一つにし、一人として持ち物を自分のものだと言う者はなく、すべてを共有していた。…信者の中には、一人も貧しい人がいなかった。土地や家を持っている人が皆、それを売っては代金を持ち寄り、使徒たちの足元に置きその金は必要に応じて、おのおのに分配されたからである。」(使徒4:32,34−35)
もちろん、これは教会の決まりではありませんでした。心有る人が自発的に助け合う気持ちを抱いてそうしたのです。決まりとして強制されたわけではありませんから、財産を持っている人が、出し惜しみをしてそれを隠したり、逆に見栄から献げる必要もなかったのです。財産を自分の手元に留めておくことも許されましたし、それを自由に捧げることも出来たのです(使徒5:1−4)。その自由な精神は今でも教会の中に生きています。

ところで、どの宗教でもそうだと思いますが、宗教活動とお金のことほど躓きを与えるものはないように思います。初代教会のパウロと言う人はキリスト教を宣べ伝えて各地を伝道し、たくさんの教会を生み出しましたが、その活動に必要な費用を場合によっては自分で働いて捻出したほど気をつかいました。もちろん、活動を十分に理解してくれる人たちからの援助は喜んで受け入れました。
そのパウロは貧しいエルサレムの教会を支えるために、他の教会の信徒たちに援助の献金を訴えて集めたことがありました。その時の手紙が残っていますが、パウロは献金の精神についてこう記しています。
「各自、不承不承ではなく、強制されてでもなく、こうしようと心に決めたとおりにしなさい。喜んで与える人を神は愛してくださるからです。神は、あなたがたがいつもすべての点ですべてのものに十分で、あらゆる良い業に満ちあふれるように、あらゆる恵みをあなたがたに満ちあふれさせることがおできになります。」(2コリント9:7−8)
このパウロの言葉の中で特に覚えたいのは、「神は・・・あらゆる恵みをあなたがたに満ちあふれさせることがおできになります」という部分です。自分がどれだけ献げたかという金額の問題ではなく、溢れるほどに恵みを注いでくださる神の慈しみを普段の生活の中でどれほど感じているのか、そのことをいつも自分自身に問いたいと思うのです。素直にそう感じることができるとき、不承不承でもなく、強制されてでもなく、心から喜んで支えあう思いが与えられるのです。