2009年3月1日(日)人生の勝利者

おはようございます。高知教会の久保浩文です。
昨年2008年は、中国の北京でオリンピックが開かれました。開催期間中は、どのテレビ局も連日連夜オリンピック種目の中継放送を流し、私たちの職場、学校や身近な所でもその話題で持ちきりです。ましてや、その競技が決勝戦ともなれば、映像は、決定的瞬間を逃すまいと、メダルが予想される選手に照準を合わせ、私たちも固唾をのんでテレビに釘付けにされてしまいます。個人種目、団体種目の区別なく、マスコミが集中して放送するのは、金、銀、銅のメダリスト達です。
メダルを獲得することは、すごいことですが、オリンピック競技そのものに出場できるまでにも、いくつものハードルを越えなければならないばかりか、健康を始めとした自己管理が必要になってきます。こうしてふるいにかけられて残った者だけが、オリンピック出場権を得ることができ、そこで更に、戦って勝った者だけが、メダルを手にすることができるのです。

私たちの人生も、ある意味では競争ではないでしょうか。
受験戦争、格差社会という言葉が示していますように、私たちも無意識のうちに競争の渦の中に巻き込まれているのです。職場でも学校でも、人間が二人以上集まれば、そこにはおのずと競争が生じます。競争に負けた者は、その存在さえも、多くの人の記憶から消え失せてしまいます。
厳しい競争に打ち勝ったものだけが、いわゆる組織集団の勝利者となることができるのです。しかし、そこで勝利して手にすることのできるメダル、栄冠は、永久のものではありません。時間と共に色褪せて朽ちていくものです。

神が私たちに与えてくださる賞は、これとは違います。
ある特別な人にだけ許されているのではありません。神の独り子イエス・キリストを私たちの救い主として信じるもの全てに平等に与えられるのです。つまり、神からの賞を受けるための条件は、この世の価値観や基準で評価されるのではありません。たとえ、この地上にあって、いわゆる人生の王道を歩き、様々な競争を勝ち抜いてこられた人でも、その人が自動的に神から賞をいただけるのではありません。神の下さる賞、すなわち義の栄冠は、「キリスト・イエスによる贖いの業を通して神の恵みにより無償で義とされるのです。
ですから、私たちは、誰でもが、神から賞を頂くことができるばかりが、信じる者は平等に金メダルを受けることができるのです。しかも、その賞である義の栄冠は、朽ちない冠であり、永遠に輝き続ける冠です。私たちは、イエス・キリストへの信仰によって真の人生の勝利者になることができるのです。

確かに義の栄冠を手に入れるためには、この地上にて、様々な艱難や試練に遭遇しますし、途中で、信仰を放棄したくなるような誘惑に駆られることもあります。「すべての重荷や絡みつく罪をかなぐり捨てて、自分に定められている競争を忍耐強く走りぬく」ことが求められています。しかし、私たちには目指すべき道しるべがあります。目標もなくただ徒に走るのでありません。「私たちの信仰の創始者であり、完成者であるイエス・キリストを見つめながら、目をそらさないで走り続ける」のです(ヘブライ12:1−2)。そうすればあなたも、真の人生の栄冠を勝ち取ることができるのです。