2009年4月5日(日)多くの人の身代金

おはようございます。山下正雄です。
キリスト教会ではきょうの日曜日を「棕梠の日曜日」と呼んでいます。イエス・キリストがろばの子に乗ってエルサレムに入城されたとき、人々が棕梠の葉っぱを手に出迎えた話に因んでそう名づけられています(ヨハネ12:12-19)。そして、この棕梠の日曜日から始まる一週間をキリスト教会では「受難週」と呼んでいます。この週の金曜日にキリストが十字架に架けられたからです。

十字架刑というのはローマ帝国では最も残虐を極めた処刑方法で、特にローマ皇帝に対する謀反を企てた者にその刑が課せられました。イエス・キリストが十字架に架けられた表向きの理由は正にローマ皇帝に対する謀反の罪だったのです。イエス・キリストを訴え出る者たちは証言して言いました。

「この男はわが民族を惑わし、皇帝に税を納めるのを禁じ、また、自分が王たるメシアだと言っていることが分かりました。」(ルカ23:2)

それで、イエス・キリストの十字架にはヘブライ語、ラテン語、ギリシア語の三つの言語で「ナザレのイエス、ユダヤ人の王」という罪状書が掲げられました(ヨハネ19:19-20)。
もちろん、イエス・キリストがユダヤ人の王であると自称して、ローマ帝国を転覆しよう企てたことなどただの一度もありませんでした。イエス・キリストの処刑は腹黒い人間の陰謀だったのです。
しかし、驚くべきことに、聖書はイエス・キリストの十字架をただ人間の悪巧みの結果として描いているわけではないのです。そこには人間の思いや計画をはるかに超えた神の不思議なご計画が働いていたのです。それはただの冤罪でもなければ、ただの犬死でもないのです。
キリストの死は、我々が負うべき罪の裁きの身代わりであったと聖書は言うのです(ガラテヤ1:4、1ペテロ2:24)。
イエス・キリストご自身も、ご自分の使命についてこうおっしゃっています。

「人の子は仕えられるためではなく仕えるために、また、多くの人の身代金として自分の命を献げるために来たのである。」(マルコ10:45)

「人の子」とはイエス・キリストがご自分を指しておっしゃる言葉です。つまり、イエス・キリストは多くの人の身代金としてご自分の命を献げるためにやってこられたのです。人々は自分たちの思惑からキリストを十字架に架けて殺してしまいましたが、イエス・キリストは神のご計画に従って、人々の罪を引き受けて十字架にお架かりになったのです。
この場合、何故イエス・キリストの十字架が多くの人の身代金となりえるのかということは、誰もが抱く疑問だと思います。しかし、聖書はその事実を述べるだけで、それ以上深い説明をしません。それを信じる者だけがその身代金の恵みにあずかることができるのです。
いえ、人間の罪はあまりにも大きくて、人間自身でその償いはできないと聖書は言うのです。その人間の罪の大きさを真剣に受け止めれば受け止めるほど、イエス・キリストの十字架の意味が輝いてくるのです。
負い切れないほどの罪の重荷を背にして、強がりを言っている場合ではありません。引き受けてくださるキリストに感謝して委ねることだけがわたしたちのできることなのです。

キリストの十字架の意味を信じて、ただすべてをキリストに委ねることが大切です。キリストが重荷をすべて請け負ってくださいます。そうすれば人の思いをはるかに超えた平安がわたしたちの心のうちに宿るのです。