2009年4月19日(日)聖書の言葉に耳を傾ける教会

おはようございます。山下正雄です。
わたしがはじめてキリスト教会の礼拝に行ってみたのは、1974年3月の終わりの日曜日でした。16歳のときです。
それまでの人生の中で、キリスト教会の礼拝に出てみたことは一度もありませんでした。礼拝では何が起るのか、周りの人の様子をそれとなくきょろきょろと見ていました。まわりが立ち上げれば自分も立ち上がり、座れば自分も座る。
ただ、予め渡された「週報」と呼ばれる、その日の礼拝のプログラムを記した紙がありましたので、次に何が来るのかはだいたい予想がつきました。

週報にはその日の説教のために読まれる聖書の箇所と説教のタイトルが記されていました。その日の聖書の箇所は旧約聖書の詩編51編でした。もう35年も前のことなのに、その日のことは昨日のことのように思い出すことができます。
その日の牧師の話はこの詩編51編全体を解き明かしたものでした。しかし、週報に記された説教のタイトルから、話の中心がどこにあるのかは、初めてのわたしにもはっきりと理解できました。
「神の受けられるいけにえは砕けた魂です。神よ、あなたは砕けた悔いた心をかろしめられません。」(詩篇51:17[口語訳])
目が開かれる思いでした。聖書はこうやって読むものなのだ、と知りました。来週も教会に来てもっと話を聞きたいという気持ちになりました。
これが、わたしが初めて教会へ行って説教を聴いた時に感じたことです。

さて、「説教」という言葉は何だか堅苦しくて、まるでお説教でもされるみたいな印象を受けるかもしれません。それを「キリスト教のお話」といってしまうと今度は軽い感じがしてしまいます。礼拝の中で語る牧師の話は、決して軽薄なお話ではありません。しかし、「こうあるべきだ」と叱りつけるお説教でもないのです。聖書の教えを解き明かしながら、人が生きる方向性を示してくれるのです。
そんな聖書の解き明かしを毎週の礼拝の中で聴くことができるのですから、日曜日ごとに礼拝に集うということはとても大きな意味があることです。

考えてもみれば、自分の生き方について考える機会など、人生の中でどれくらいあるものなのでしょうか。何かきっかけとなるような事件でも起らなければ、なかなか考える機会は巡ってきません。大抵の人は、高校受験のときにはじめて自分の進路について思いをめぐらせるのかもしれません。しかし、それも受験が終わってしまえば、次のチャンスまで思い出されることはありません。
就職、結婚、出産、身近な人の死。こういった節目となるような時に、思い出したように「人生」という言葉が頭の中をよぎります。しかし、それもほとんどはその時限りのものでしょう。

教会の礼拝には色々な人たちが集まっています。年齢も職業も様々です。育ってきた背景もバラバラです。しかし、その違った人たちが、同じ聖書の言葉によって養われているのです。もちろん、みんなが同じように牧師の聖書の解き明かしを受けとめるとは思いません。ひとそれぞれ、理解の深さも違うでしょう。理解したことを適用する適用の仕方も異なります。しかし、それだからいいのです。同じ聖書の言葉に触れながら養われていく様々な人の中で、自分自身も豊かに育てられていくのです。

きょう、是非あなたも教会の礼拝に行って、聖書の話に触れてみてください。