2009年6月7日(日)天と地を造られたお方

おはようございます。山下正雄です。
キリスト教が何を信じているのか、簡単に言い表したものに「使徒信条」と呼ばれる短い文章があります。ラテン語でわずかに77の単語でキリスト教を言い表しています。
この使徒信条はラテン語の語順で言うと「我は神を信ず」という言葉から始まります。日本語では翻訳の都合から、その神がどんな神であるのか、その説明である「天地の造り主」という言葉が最初に置かれます。

「我は天地の造り主、全能の父なる神を信ず」

この「天地の造り主」という言葉が最初に置かれるので、それを聞いただけでキリスト教はバカバカしいと思う人もいるでしょう。

その昔、江戸時代に新井白石という学者がいましたが、キリスト教禁教の時代に潜伏してきたイタリア人宣教師シドッチを尋問して、『西洋記聞』という書物を表しました。その本の中で、白石は西洋文明の優れていることに大変な興味を示しています。しかし、シドッチの説くキリスト教には興味どころか、軽蔑の気持ちさえ表しています。神が天地万物を造ったということが、まったく説得力を欠く馬鹿げた話だと言うのです。
新井白石にとって科学技術の優れた西洋人が、まったく非科学的としか思えない天地の創造主を信じていることが到底理解できないことであったのでしょう。多くの日本人にとって、この新井白石の思いは共通しているのではないかと思います。

キリスト教にとって天地の造り主であるお方を信じるということは、ただ単に天地万物の由来を描いた空想の神話を信じるということではないのです。それは突き詰めていけば、自分自身の存在の意味や意義を問うているのです。

「わたし」という存在があることは疑いのない事実です。それを疑う人はいないでしょう。では、その存在がどのようにして生じたのかということを考える時に、ただの偶然の結果だとしたらどうでしょう。偶然には意味も意義もありません。どんなに自分には価値があると言い張っても、所詮、偶然の産物に過ぎないのです。「人間の尊厳」や「基本的人権」などということを言ってみたところで、偶然の積み重ねで出てきたものに、尊厳もなにもあったものではないと言われてしまえばそれまでです。
偶然生まれてきた者が、ある者はたまたま幸福な境遇に生れ落ち、ある者はたまたまめぐり合わせが悪くて不幸になっているだけのことです。
もちろん、だからこそ、この偶然の生み出した不平等を埋め合わせることが人間の務めなのだ、という人道主義の考えが出てくるのでしょう。

しかし、キリスト教が信じる「わたし」という存在は、明確な意志をもったお方によって造られたものなのです。「わたし」ばかりではなく、すべての人が、そして、人間を取り巻くすべての自然が、宇宙が、神の手によって造られということを信じているのです。誰一人として偶然で意味のない存在はいないのです。この創造者である神によって造られたからこそ、人間には冒すことのできない尊厳があり、人間には奪うことのできない基本的な人権があるのです。

天地の造り主である神を信じると言うことは、結局のところ自分自身と自分を取り巻く世界の存在の意味と意義を考えることに通じるのです。もっと簡単意に言えば、神によって造られた人間であり世界であるからこそ、すべてが大切な存在であることを疑わないということです。