2009年8月2日(日)恵みとしての苦しみ

おはようございます。宿毛伝道所の酒井啓介です。
私たちの住む日本においては、周りの人たちと協調し合うことが特に重んじられていると思います。誰かと誰かの意見が異なる場合に、穏便に済むように互いに気を配るでしょう。しかし、穏便に済まそうという気が度を過ぎると、人の意見や周りの雰囲気についつい流されて、自分の意見や立場をどんどん周りに合わせてしまう。やがて、妥協してはならないものまで妥協してしまうことが起こるかもしれません。それは私たちの信じている大切な事柄についても言える事だと思います。

聖書には、有名な伝道者であるパウロという人がいます。彼は、多くの教会を、手紙を通して励ましていました。このパウロは、ある時に次のように書きました。

「あなたがたには、キリストを信じることだけでなく、キリストのために苦しむことも、恵みとして与えられているのです。」(フィリピ1:29)

この手紙は、ヨーロッパにあるフィリピという町の教会に送られました。このフィリピの教会は、ある試練を受けていました。キリスト教の信仰に反対する人たちが、フィリピの教会を脅していたのです。しかも、反対をする人たちは権威のある人たちでした。頭脳も優れ、社会的な発言力のある人たちもいたと思われます。論じ合ったら、自分たちは太刀打ちできない、そのような人たちです。その人たちの言葉は、きっと迫力があったに違いありません。このフィリピの教会の人たちの多くは、怖がっていました。教会の大半の人は、信仰をもってからそれほど長い年月は経っていません。信仰歴の若い人たちです。自分の信仰をきちんと伝えたくても、反対者たちに対してうまく対処できず、苦しい思いをしていたことでしょう。しかし、彼らは純粋にイエス・キリストこそ神の子であることを信じていました。もし、信仰を捨ててしまえば反対者たちと衝突することはなく、調和してしまい、楽にはなるでしょう。しかし、それは解決ではなく妥協でありましょう。

フィリピ教会の人々と同様に、私たちの信仰は、私たちが作り出したものではなくて、神様がお与えになったものです。それゆえ、何かが私たちの信仰を捨てさせようと働きかける時、聖霊なる神様が私たちを支えて下さいます。そして、私たちは流されずに、支えられて信仰に立ち続けるのです。それは、信仰を持つが故の苦しみをも受けることになりましょう。例えるならば、私たちが、浅く緩やかな流れの川に入っていて、そこに立っていることは簡単かもしれません。しかし、深く激しい流れの川では、水の勢いが強くて、さすがに立っていることは難しいでしょう。それでももし、私達を後ろから支える十分強い力があるならば、きちんと立っていられることができると思います。

そのように、聖霊なる神様は、私たちを支えて下さり、立ち向かう力を与えて下さいます。途中でやめることなく最後まで支え続けて下さるのです。聖霊が支えて下さるからこその苦しみが、恵みとして私たちに与えられているのです。信仰を持つが故の苦しみは、私たちだけが孤独に覚えるものではありません。その苦しみは、イエス様が最初に背負って下さいました。私たちの苦しみをイエス様は知っていて下さり、そしてその苦しみを乗り越えられるように、聖霊の導きをお与えになって下さいます。今日も、そのイエス様を見上げて行きたいと思います。