2010年3月28日(日)神と共に歩む人生

おはようございます。安芸にあります、芸陽教会の宮武妃呂美です。
私達は自分の人生が順調でうまくいっている時よりも、かえって思いがけない病気や事故など、まさかと思うような試練の時の方が自分のこれまでの生き方や人生をふりかえることができるのではないでしょうか。人生には誰にでも一つや二つ、試練と思えるような事がやってきます。その時にその試練にしっかりと向き合い、その試練を通して自分の今までの人生や生き方を考えるのか、それともただやり過ごしたり、もうだめだとあきらめてしまうのかでは、私達の人生はその後大きく変わってくることでしょう。
その意味で試練は人生を変えるチャンスといえるのかもしれません。そして、そのような試練の時にこそ、自分がいったい何を大切に生きているのか、何を頼りにして生きてきたのかがはっきりと見えてくるものです。では、どうしたら試練の時、その試練にしっかりと向き合い乗りこえることができるのでしょうか。

聖書で、伝道者パウロという人はコリント人への手紙を書いている時、「アジアであった苦難」を思い起こしていました。「私達は耐えられないほどひどく圧迫されて、生きる望みさえ失ってしまいました。わたしたちとしては死の宣告を受けた思いでした」と、言っています。そして、パウロはこの試練の意味をこのように説明しています。「それで、自分を頼りにすることなく、死者を復活させて下さる神を頼りにするようになりました」(2コリント1:8-9)と。この試練を通してパウロは神への信頼を学んだのです。神への信頼こそ、試練を乗り越えるための秘訣と言ってよいでしょう。

さて、今週はイエス・キリストが私達の罪の身代わりに十字架の上で苦しみを受けて下さったことを覚える受難週です。父なる神は人類の救いのため、自分の大切な独り子、イエス・キリストを十字架につけられることをよしとされ、イエス・キリストは私達の罪の身代わりに十字架への道を歩んで下さいました。私達人類の罪は神の御子であり、イエス・キリストが担うことでしか、解決されない、重く大きなものであったのです。

イエス・キリストは十字架にかけられる前の夜、ゲツセマネという所で一人、父なる神と向き合い、「父よ、御心なら、この杯を私から取りのけて下さい。しかし、私の願いではなく、御心のままに行なって下さい。」(ルカ22:42)という祈りをささげられました。キリストは十字架という大きな試練を前に神の御心を求め、その御心に従ったのです。
私達も試練に会う時、この試練を通して神は私に何を教えようとしているのかと問いかけながら受けとめると、試練はかえって人生において意味のあるものとなるでしょう。そして、人の生きる意味を知ることができたり、生き方を変えるチャンスとなるのです。

しかも、イエス・キリストは私達の罪ばかりではなく、私達の人生の只中で背負う苦しみや悩み、試練を共に背負って下さっているのです。自分の人生には目には見えませんが、神が共にいて下さり、私達と共に人生を歩んで下さっていることを知る時、私達の人生は一変します。自分のすべての人生における様々な出来事の中に神の存在を認め、たとえ、試練と思えるようなことの中にも神の深い愛と恵みを見つけることができるのです。この世では様々な悩みや苦しみがあったとしても、神が私達の人生を共に歩んで下さっていると知る時、私達は平安のうちにその試練を乗り越えることができるのです。聖書のイザヤ書53章には、イエス・キリストの十字架の恵みがこのように示されてあります。

「彼が刺し貫かれたのは わたしたちの背きのためであり、
彼が打ちくだかれたのは わたしたちの咎のためであった。
彼の受けた懲らしめによって わたしたちに平和が与えられ
彼の受けた傷によって、 わたしたちはいやされた。」

イエス・キリストは、あなたのすべての苦しみ、悩みを知って下さっています。神が私達のすべての苦しみを知って下さっているとは、何という慰めでしょうか。あなたの人生の只中にも、神が、共にいて下さることを信じることができますよう、心よりお祈りいたします。