2010年4月11日(日)聖なる公同の教会

おはようございます。山下正雄です。
使徒信条と呼ばれる、古くから告白され続けてきたキリスト教の信仰箇条があります。クリスチャンたちが何を信じているのか、簡潔にまとめた信仰告白の言葉です。

その信仰告白の言葉は、三位一体の神、つまり天地万物の創造者である父なる神、救い主である御子イエス・キリストなる神、そして聖霊なる神を、三つでありながら唯一である神として告白してきました。その三位一体の神への信仰告白の言葉に続いて、「聖なる公同の教会を信ず」と続きます。

神を信じるというのは、キリスト教信仰をもった人でなくても、ある程度共通のイメージを描くことができると思います。しかし、「教会を信じる」という言葉を聞くと、様々なイメージを思い描くのではないでしょうか。目に見えない神とは違って、教会の建物は目で見ることができます。教会らしい建物がなくても、礼拝に集まる人がいることは、やはり目で見ればわかることです。教会の建物があることやそこに集まる人がいることは、信じるまでもなく、それは見ればわかることです。
では、「われは教会を信ず」とはどういうことでしょうか。教会の言うことは何でも信頼できると信じることでしょうか。いいえ、そういう意味ではありません。

そうではなく、父子聖霊の神を信じるこの共同体が、人間が結成した任意の集団ではなく、キリストのもとに神が聖霊を通して召し集めた共同体であると信じることです。
しかも、神によって召し集められた教会は、「聖なる」「公同の」と呼ばれます。

聖書に出てくる「聖なる」という言葉の本来の意味は、神の御用のためにとり分けられたものということです。しかし、やがてこの言葉は神ご自身の汚れのない清さを表すようになり、罪の汚れと対立する倫理的な清さの意味を持つようになります。教会が「聖なる教会」と呼ばれるのは、神の御用のために選り分けられたという意味でもそうですが、同時に、キリストの与える救いのゆえに罪を赦され、聖霊によって清められつつある共同体という意味でも、教会は「聖なる教会」なのです。神がそのようなものとして教会を造り上げてくださっていることをわたしたちは信じているのです。

また、わたしたちが信じる教会は「公同の教会」と呼ばれています。この「公」に「同じ」と書く「公同の」という言葉は、ギリシア語の「カトリケー」と言う言葉の訳語です。カトリック教会の「カトリック」という言葉と同じです。「普遍的な」と訳してもよい言葉です。

わたしたちが「教会」について考えるとき、それはある時代の地域や民族に属する特定の教会ではありません。時代と場所を超えて遍く存在する教会です。
しかし、目に見える教会の共同体は、時間と場所を超越しているわけではありません。現実には言葉の問題があって、いくつにも分かれています。分かれているのは言葉の問題ばかりでありません。時には聖書の読み方を巡っていくつもの教派に分かれています。しかし、それにも関らず教会が普遍的であることを信じています。神がそのように教会を普遍的なものとしてお造りになったことを信じていればこそ、収拾がつかないほどたくさんある個々の教会や教派の姿を目の当たりにしても、一つの普遍的な教会の姿をその背後に見ているのです。

「我は聖なる公同の教会を信ず」とは、ただ、名ばかりの「聖なる」「公同の」教会を信じているのではありません。目に見える部分とのギャップの中にも、なお神の聖なる公同の教会が存在していることを信じているのです。