2010年6月20日(日)神を信じるとは

おはようございます。山下正雄です。
キリスト教の信仰を簡潔に言い表した『使徒信条』と呼ばれる短い信仰告白の言葉があります。そこに記されている事柄を一通り理解すれば、キリスト教について必要最低限のことは理解できたといえるでしょう。
もちろん事細かなことを言い始めれば、今も神学者と呼ばれる人たちが、キリスト教の教理についての研究を続けているのですから、キリスト教の真理を極め尽くすとなれば何年あっても足りないかもしれません。
そのようにキリスト教の教えを生涯にわたって深く知ろうとすることはとても大切なことです。しかし、それに水をさすわけではありませんが、聖書にはこんな言葉もあります。

「あなたは『神は唯一だ』と信じている。結構なことだ。悪霊どももそう信じて、おののいています。ああ、愚かな者よ、行いの伴わない信仰が役に立たない、ということを知りたいのか」(ヤコブ2:19-20)。

この言葉は、聖書の神を信じるとはどういうことなのか、ということを問いかけているのだと思います。
使徒信条の学びを通して、わたしたちは聖書の神が天地の造り主であり、全能者であり、父なる神であることを知ります。それは無駄な知識どころか、人間にとって知っておくべき大切な知識です。使徒信条の言葉を学ぶことで、キリスト教が何を信じているのかその全体像をつかむことができます。

しかし、ヤコブの手紙に言わせれば、それを知識として知っているというだけでは、悪霊たちとなんの変わりもないのです。
確かに、神を信じることは、「鰯の頭も信心から」というのとは違います。何も知らないのに信じるのでは、ただの妄信です。信仰にとって知識は大切な要素です。しかし、「知っている」ということと「信じている」ということとは決して同じことではありません。
神についての知識をどんなに積み重ねたとしても、それは神を信じることとは別問題です。ヤコブの手紙がいみじくも語っているように、そんな知識ならば悪霊どもでさえ持ち合わせているのです。
では、神を信じるとはどういうことだとヤコブは言いたいのでしょうか。ヤコブは言います。

「ああ、愚かな者よ、行いの伴わない信仰が役に立たない、ということを知りたいのか」

この場合の「行い」というのは、単に「善い行い」、「善行」という意味ではないでしょう。あるいは「信じたのなら行動せよ」、という意味でもないでしょう。そうではなく、「信じた通りに生きる」と言い換えてもよいと思います。信じたとおりに生きるのでなければ、その信仰は意味がない、役に立たないと言うことです。
神の無限の愛を信じていると言いながら、その愛に応えて生きないとしたら、それは明らかに神を信頼していないことになります。神の最高の御心は、神と隣人とを愛することだ、と知っていながら、そのとおりに生きないとすれば、その信仰は知識だけに終わっているということです。

これは耳の痛い言葉ですが、真摯に耳を傾けなければならない言葉です。
神を信じるということは、信じる神の世界に身をおき、そこに生きようとすることです。神というお方を知り、そのお心を自分自身の生きる指針とし、神の御心にしたがって生きることです。
もちろん、人間的な弱さのためにそのとおりできないこともあります。しかし、その人間の弱さをも神はご存じなのですから、神の力を信じて、前に進んでいきましょう。