2010年10月10日(日) 心の貧しい人は幸い

おはようございます。宿毛教会の酒井啓介です。
聖書には、「心の貧しい人々は、幸いである、天の国はその人たちのものである。」(マタイ5章3節)という、とても大切な教えがあります。実は、当時イエス・キリストが小高い山に登り、そこから一塊のまとまった教えを人々に語りまして、これを山上の説教というのですが、その中でも最初の教えが今朝の聖書の言葉です。最初の言葉は、それに続く全体を表すものであります。

心の貧しい人々という言葉にある「貧しい人」とは、聖書では、もともと周囲からの助けを必要とする、経済的に貧しく苦しい人のことです。当時の法律では、貧しい人がいたら助けなければいけないと決められていました。ですから、自分たちの周りに貧しい人がいたら、助けを必要としているのだから助けなきゃいけないと、人々はみんなこう思っていまして、もう文化のようになっていたわけです。
もし、自分のことを貧しい人だと思うならば、自分は助けてもらわないといけないと思うことでありまて、そして、そのように思える人は幸いだと言われたわけです。貧しいという人の中でも、単に金銭や名声が貧しいという人よりも、心の貧しい人々のことを言っており、心において助けを必要とする大切さを語っています。

自分の心は助けを必要とするほど貧しい、そう思うことは恥ずかしいことかもしれません。しかし、イエス・キリストが言いますところは、助けてもらわないとどうにもならないほど心が貧しくて貧しくて、もうしょうがない。だから助けて欲しい!そう思える人は幸いだ、というのです。自分の心が本当に貧しいのに、その貧しさから目を背け、何か満ち足りた気持ちになるというだけでは、根本的な解決にはならず、何か事が起こった時にたちまち耐えられなくなるでしょう。
自分の心は本当は貧しい、また思っていたよりもずっと貧しい、このように受け入れる時、もはや孤独ではありません。イエス・キリストが共にいて下さいます。しかも、イエス・キリストは「幸いである」と語りながら共にいて下さいます。「幸いである」という言葉は、もともと感嘆文で書かれています(文語訳)。心の貧しい人々のことをイエス・キリストが心から感心して思わずほめるようにして、「ああ、なんと幸せなことか!」と、そう述べたのです。そして、続けて「天の国はその人たちのものである」(マタイ5章3節)と語りました。

天の国とは、神様の支配がある場所を言い表したものです。すなわち神様の豊かな守りと導きがあるところでありまして、心の貧しさに気付き、助けを求める者を神様は放っておかず、力強いご支配によって守ってくださる、そのようにイエス・キリストは教えて下さいました。
そのように、新しく生き始める人は、もう古い自分を捨てていける人です。自分の貧しさから目を背けてしまって、なかなか進まない自分の歩みを正当化する、そんなことをもう辞めていけるのです。
心の貧しさに気付き、それを認めて、いよいよ神様に助けを求めて参りましょう。神様は天の国を与えて下さると言われました。その約束を喜びながら、私たちはイエス・キリストに、「ああ、なんと幸いな人だ」と言われる人になって参りましょう。