2011年1月23日(日) イエス・キリストとの出会い

 おはようございます。山田教会の後登と申します。
 今日は私が教会に行き始めたきっかけや印象に残っていて、今でも心の支えになっている聖書の言葉を紹介していきたいと思います。

 はじめて聖書の言葉に触れたのは、小学校の時でした。私の祖母の家の近くに山崎さんという方が毎週土曜日の午後、開いていた一時間ぐらいの集会を通してでした。お友だちに誘われて初めて行きました。
 そこでは、子どものための讃美歌を歌ったり、聖書を読んで、山崎さんが聖書の中からわかりやすくお話してくださいました。そこではよく聖書の言葉を覚えるということをしました。小さなカードにみ言葉と絵が描いてありました。

 沢山の言葉を覚えましたが、一枚だけとても印象に残った絵と言葉は、十字架を重そうに背負ったイエス様の絵と、「わたしについて来たい者は、自分を捨て、日々、自分の十字架を背負って、わたしに従いなさい」と言う言葉でした。ルカによる福音書9章23節。この頃はまだ何も分からず、ただ、イエス様の十字架は重くて大変なんだなと心に留めていただけでした。
 その集会に通い続けたとき、母の友人を通して三浦綾子さんの「塩狩峠」と聖書を頂きました。そしてこの本を読み、主人公の生き方に、人生の終わり方に深い感銘を受けました。

 中学生の時はほとんど教会に行けなかったのですが、小学校の時に覚えた子ども讃美歌や主の祈り、そして聖書を毎日読み続けました。この時期に何か困ったこと、様々なトラブルにあったとき支えになった言葉は、ヤコブ書1章2節「わたしの兄弟たち、いろいろな試練に出会うときは、この上ない喜びと思いなさい」でした。この辛いことは決して無駄に終わることは無いんだということを覚えながら過ごしました。

 高校生になったときには、家族の病気など自分では抱えきれない悩みを負うことになりました。悩み、苦しみを持ち、再び教会へ行こう、何か解決の糸口を見つけられたらと、すがる思いで礼拝に通い始めました。
 礼拝の中で語られる聖書のお話を通して、イエス・キリストが私の罪のために十字架に掛かり、その罪を取り去ってくださることがはっきりとわかり、神様の深い愛を知りました。
「神は、その独り子をお与えになったほどに、世を愛された。独り子を信じる者が一人も滅びないで、永遠の命を得るためである。」ヨハネによる福音書3章16節の言葉をもって、イエス・キリストに立ち返ることが出来ました。

 私の抱えていた現実や状況はすぐには変えられませんでしたが、神様の大きな愛の中で生きているという平安が与えられました。そして、どんなときでも神様が共にいてくださるということが心の支えとなりました。
 幼い頃覚えたみ言葉、「日々十字架を負って私について来なさい」。十字架は神様の愛です。その愛を背負って、イエス・キリストに従って、これからも歩み続けたいと願っています。