2011年3月27日(日) 永遠の命

 おはようございます。山下正雄です。

 福音書を読んでいると「永遠の命」についての質問が一度ならず出てきます。たいていの場合、質問は「永遠の命を受け継ぐには何をしたらよいでしょうか」という形をとります。

 ここから少なくとも三つのことが言えます。一つは、「永遠の命」という言葉が、質問者にとっても質問される者にとっても、説明の必要がないくらい当然の知識としてあったということ、二つ目は「永遠の命」という事柄が、人生の真面目な課題であったこと。そして、三つ目には、「永遠の命」は何かをすることによって得られるものであること、あるいは、何かをしなければ得ることのできないものである、と思われていたことです。

 さて、わたし自身のことを考えてみると、16歳になって初めて聖書を自分で読むまでは、「永遠の命」という言葉そのものに触れたことがありませんでした。したがってそれが何であるかについて知る機会もありませんでした。

 もちろん、昔話などに出てくる不老不死の泉の話などは知っていました。また、死に対する漠然とした恐怖感は幼いころから抱いていました。ですから、「永遠の命」という言葉を耳にして、いつまでも続く命、死ぬことのない命、長命、長寿ぐらいの意味にしか理解することができませんでした。

 当然、聖書と出会うまで「永遠の命」ということが、人生の課題として上って来ることは一度もありませんでした。また、それを得るために何かをしなければならない、あるいは何かをしなければ永遠の命を得ることができない、という発想が生まれてくることもありませんでした。

 もちろん、死にたくないと思ったことはありました。しかし、何をしても死から逃れることはできないと思っておりましたし、何かをしなかったがために死が訪れると思ったこともありませんでした。

 あるいは日ごろの行いが悪いために、極楽だか天国だか分りませんが、そういう場所に入ることができないかもしれない、と考えたことならあります。そう言う意味でならば、死後に待っている恐怖の刑罰を免れるためにこの地上でどう生きるべきかは、人生の課題として上ってきたことも、なくはありませんでした。

 16歳のころまでに考えた命についての思いや、命と関係して考えたことのすべては、その程度のことでしかありませんでした。そして、このことはわたし一人に限らず、たいていの日本人にとっては、ほぼ同じではないかと思われます。

 それに対して、聖書の世界では「命」そのものが何よりも神と直接結びついているということです。そして、その神ご自身が「生きた神」あるいは「生きた者の神」と言われています。生命の根源は神にあるわけですから、聖書の世界では神を抜きにして「命」について語ることはできないのです。

 イエス・キリストは「人はパンだけで生きるものではない。神の口から出る一つ一つの言葉で生きる」と、旧約聖書の言葉を引用されましたが、これなども、人の命が何によって支えられるのかを端的に語った言葉です。まことの神に支えられ、まことの神のみ前に生きるのでなければ、ほんとうの命の意味がないのです。そして、そのような命に生き続けること、やがて完成する永遠の神の国にそのような命をもって生き続けることが、永遠の命の問題です。

 さて、最初に掲げた質問に戻ります。永遠の命を受け継ぐには何をしたらよいのでしょうか。

 実は、何かをするのではなく、神がお遣わしになった御子イエス・キリストを信じること、それが聖書が与える答えです。