2011年9月18日(日) 心を豊かにするもの

 おはようございます。山下正雄です。

 心を豊かにするもの…今朝はこのことについてご一緒に考えてみたいと思います。「豊かな心」「心が豊かである」という言葉を耳にしますが、それは具体的にはどういうことなのでしょうか。わたしなりにそのことについて考えてみました。

 まず、心が豊かであることについていきなり考えるよりも、心が豊かであることの反対は何であるか、そのことを思い浮かべてみる方が簡単なように思います。人間とは不思議なもので、人と出会ったときに、その人の良い点についてよりも嫌な点についてよく気がつくものです。いい人だというのは漠然とした印象である場合が多くても、嫌な人については、どの点が嫌なのか具体的に覚えているものです。

 では、心が乏しい、心がさもしいと感じるのは、どういう人のことでしょう。きっと心が豊かな人について考えるよりも、心が乏しくてさもしい人について考える方が簡単にイメージできるのではないかと思います。

 妬みばかりを抱いて他人の成功やお祝い事を心から喜べない人、こういう人は心が乏しいと感じます。あるいは、人の過ちや失敗を何時までも覚えていて、それを赦すことができない人、こういう人も心が乏しいと思われます。

 あるいは、こんな人も心が乏しいと思われます。相手を思いやったり気遣ったりできない人。自分の行動や言葉が相手を傷つけるかもしれないと、想像力を働かせて考えることができない人。

 さらには、自分の幸せのことしか考えることができなくて、何かを分け与えたり共有したりすることができない人、こういう人も心が乏しいと思われます。

 こうした心の乏しい人のイメージは次から次へと浮かべることができます。そして、いつも自分がこのような心の乏しい人間ではないとしても、どこかしらでそういう心が顔をのぞかせることがあるというのも事実です。

 もちろん、わたしはこの場を借りて心の乏しい人たちを非難しようとしているのではありません。というのも、心が乏しくなってしまうのには、本人だけの責任とは言い切れないものがあるからです。

 たとえば、一生懸命努力しても50点しか取れない人が、ほとんど遊んでばかりいても100点を取れる人が褒められるのを見て、一緒に喜べるでしょうか。ましてその人と比べられて、自分の能力の低さをけなされでもしたら、心が豊かになどなれるはずもありません。

 あるいは過ちや失敗を暖かく許されたという経験がなければ、人を許すことなど思いも付かないことでしょう。いつも貧困にあえいでいる人が、誰かためにものを分かち合う気持ちの余裕などないとしても、それは非難されるようなことでもないでしょう。

 そう考えると、罪深い歪んだ人間社会の中で心を豊かに保とうとするのは、至難のことと思えてきます。しかも、「衣食足りて礼節を知る」のかと思えば、ものが有り余りすぎていても人間の心はそれに比例して豊かにはなりません。では、いったいどうすれば心が豊かになるのでしょう。

 結局のところ、自信と気持ちに余裕がなければ豊かな心など育つはずもありません。そして、自信と気持ちの余裕は、自分が大切にされていること、愛されていること、受け入れられていることを経験してはじめて身に着くものです。そのような経験は人間同士のなかでも育まれはするでしょう。しかし、人間を超えた大きな存在から受け入れられていることを悟るとき、もっと大きな自信と心の余裕を持つことができるようになるのです。

 聖書の神は寛大なお心をもってわたしという存在を受け止めてくださいます。この神と出会う時、心が豊かであることを習い始めるようになるのです。