2011年10月23日(日) 全知全能の神

 おはようございます。山下正雄です。

 キリスト教の用語に「ゼンチゼンノウの神」という表現があります。「全知」という言葉も「全能」という言葉も普段の生活の中ではあまり使われない言葉です。ここでいう「ゼンチゼンノウの神」とは、「何でも知っていらっしゃる神」、「何でもお出来になる神」という意味です。
 けれども、ただそう言われても、あまりピンと来ないかもしれません。いえ、むしろ、「何でも知っている」などど言われたら、あまり関わりたくない気持ちになってしまうかも知れません。人間同士のことなら、むしろ何でも知っていない方がプライバシーが保たれて、かえって都合がよい場合もあるでしょう。
 あるいは、「何でもおできになる」というのも、誤解されやすい言葉です。もし神が本当に何でもおできになるお方であるとするなら、どうして大きな災害をくい止めることができなかったのか、そもそも神が全能者であるなら、どうして人間が罪を犯さないようにできなかったのか、次々と新たな疑問がわきあがってきます。
 しかし、こうした疑問は、どれも「全知全能」の意味を誤解しているところから生まれる疑問です。そもそも、人間には限られた知識によってしか「全知全能」について理解することができないという事実があります。人間は全知全能ではありませんから、それがどういうことを意味するのか、頭で考え想像するしかありません。その理解はどう頑張ってもものごとの一部でしかありません。全体を理解できないものが、部分の不都合をどんなに指摘したとしても、それで全体像を把握したことにはならないからです。

 さて、きょうはこんな屁理屈を朝からお話しようとしているのではありません。聖書の世界は決して屁理屈の世界でもなければ、思弁を弄ぶ世界でもないからです。
 実はこれだけのことを言っておきながら、聖書の中には「全能」という言葉そのものは、そんなにたくさん登場するわけではありません。旧約聖書で「全能の神」という言葉が出てくる場合のほとんどは、「エルシャダイ」つまり「シャダイの神」という言葉の訳語です。「エルシャダイ」の本来の意味がなんであったのかは別として、この「エルシャダイ」という言葉がもっともたくさん用いられているヨブ記の一番最後に、ヨブ自身の言葉で「あなたは全能であり 御旨の成就を妨げることはできないと悟りました」(ヨブ42:2)という神への独白がなされています。
 このヨブほど理不尽と思える不幸に見舞われた人物はいません。このヨブこそ、声を大にして「神が全能者であるなら、なぜこの自分の身に降りかかる災難を止めることはできないのか。神が全能者であるなど真っ赤な嘘だ」と叫び続けてもよさそうです。しかし、ヨブが悟ったことは、これとはまったく逆のことでした。神が全能者であるからこそ、人間の思いをはるかに超えたご自身の御旨を果たすことができるのだ、という確信です。
 この確信は神への信頼がなければ生まれてこない確信です。人間が自分の頭で、神はこうあるべきだ、と思っている限り、達することのできない考えです。むしろ、神は人間の限られた発想を超えているからこそ全能者であり得るのです。

 実は、新約聖書にも「全能の神」という言葉はほとんど出てきませんが、イエス・キリストは救い難い人間の救いについてこうおっしゃっています。
 「人間にできることではないが、神にはできる。神は何でもできるからだ。」(マルコ10:27)
 神の御業の中でもっとも理不尽と思えることは、神の子イエス・キリストを私たちの罪の身代わりとして十字架におかけになったことです。神が全能者であることは、この救いの御業の中にもっともよく示されているのです。