2015年1月18日(日) 神の住まわれるところ

 おはようございます。松山教会の久保浩文です。
 私が今住んでいます松山市は、人口約51万人の都市で、市の中心には、山城として有名な松山城が、小高い丘の上にかつての封建時代の面影を残して威風堂々と聳え立っています。ちょうど長女が2歳くらいの頃、私はお隣の新居浜市に住んでいたのですが、正月休みに家族で松山城を訪れたことがあります。丘の麓から幼い娘の手を引いて、途中からは背中におんぶして、ようやく城のある頂まで登りました。城に入ってからさらに天守閣まで、敵の侵入を容易に許さない迷路のような道のりを歩き、ようやく天守閣につくと、その頂上からの眺めは格別でした。にぎやかな街の営みと城の周辺の豊かな緑を一望でき、昔の藩主たちもこのように天守閣から城下を見下ろして自らの権勢と領地の平穏を確認したのであろうと思ったものです。一方、城下に住む領民たちは、日常生活の中で、時折、小高い丘のお城を見上げては、自分たちの生活を守ってくれる殿様に思いをはせたかもしれません。

 イスラエルには、かつてソロモン王によってシオンの丘に建てられた壮大な神殿がありました。当時の最高の技術と資材を用いて建てられた神殿は豪華絢爛で、まぶしいばかりにきらめいていたことでしょう。しかし、その神殿はバビロン帝国の侵略を受けて、完全に破壊されてしまいました。後に、バビロンの捕囚から帰還した人々によって、第二神殿が再建されましたが、様々な変遷を経て、紀元70年に、ローマ帝国によって再び破壊されてしまい、今日に至っています。

 シオンの丘に聳え立つエルサレム神殿は、はるか遠くからでも仰ぎ見ることができたそうです。都エルサレムの中心に立つ神殿は、イスラエルの民の中心に主なる神が臨在されることの象徴でした。民は、四六時中、主なる神によって見守られ、導かれていることの安心と平安を与えられて生活をしていたのです。実際、「イスラエルを見守る方は、まどろむことなく、眠ることもない」(詩編121:4)お方であり、私たちがいつ呼び求めても近くにおられる神なのです。しかしいつしか、そこに神殿があるだけで、自分たちの生活は安泰だと安心するようになり、神殿にて献げられる礼拝が、心の伴わない形式的なものになってしまいました。その結果として、神殿は破壊されてしまったのです。

 主なる神は、天地万物の創造主ですから、人の手によって造られた神殿にはお住みになりません。また、何か不足しているかのように人の手によって仕えてもらう必要もありません。神は私たち一人ひとりから遠く離れてはおられません。私たちが、正しい方法で神を呼び求め、神に祈りさえすれば、神は私たちの心からの祈り、求めをお聞き下さるだけでなく、それに答えて下さるお方です。

 イエス・キリストは、「わたしの名によって何かを願うならば、わたしがかなえてあげよう」と言われました。イエス・キリストこそ、永遠の神の御子であられ、私たち人間と同じ姿でこの地上に住まわれた真の人です。私たちの人生の喜怒哀楽のすべてを経験され、私たちの心の奥深いところの嘆きや痛みを理解してくださる唯一のお方です。主イエスは、聖霊によって、ご自分を信じる者の心の中を神殿としてお住まいになられます。私たちは、このイエス・キリストによって、いつも見守られ、すべてのことを導かれ、真の平安を得ることができるのです。