2015年5月10日(日) 主イエスと出会った人々〜マタイの場合

 おはようございます。ラジオ牧師の山下正雄です。
 新約聖書の福音書には、様々な人物が登場します。男も女も、子供もお年寄りも、お金持ちから貧しい人々まで、様々な立場の人たちがいろいろな形でイエス・キリストと出会います。そこには何の法則もありません。こんな人だからキリストと出会えたと言える何かがあるわけではありません。言い換えれば、今の自分がどんな立場であれ、そのことがキリストと出会うことを妨げる決定的な理由にはならないということです。

 さて、きょう取り上げようとしている人物は、マタイという人です。この人は伝説によればマタイによる福音書を書いた人だと言われています。
 マタイという名前が新約聖書に登場するのは全部で五回だけです。そのうちの四回は、ほかの弟子たちと一緒に名前がリストに出てくるだけで、特徴ある一人として紹介されているわけではありません。それ以外に、たった一度だけ、マタイによる福音書には、このマタイとキリストとの出会いのエピソードが記されています。同じ出来事を描いたほかの福音書では、この人物はマタイではなくレビという名前で紹介されていますから、マタイとレビは同一人物だと信じられています。

 そのマタイですが、その職業はローマ帝国のために働く徴税人でした。徴税人というのは通行税を徴収する人です。しかし、ローマ帝国に雇われた公務員というイメージではなく、実際は請負業でした。上手に徴収できなければ、自分で埋め合わせるリスクを負う仕事です。そういう意味では計算高くなければ勤まりません。損をしないためには悪賢いこともします。税率などあってないような振る舞いです。取れる者からはたくさんとって、自分がリスクを負わないようにします。取られる側からしてみれば、詐欺や泥棒と一緒です。こんな人は信用ならんと誰もが思っていました。特にユダヤ人からみれば、道徳的に問題があるばかりか、異邦人の手先となって同じ同胞から取り立てるのですから、感情的にも許せません。そして、何よりも、汚れた異邦人と接触する仕事ということで、宗教的にも受け入れられませんでした。

 もっともマタイの立場で考えてみれば、こんな仕事を選ばざるを得なかったのでしょうから、よほどのことといえます。いったい誰が好んで同胞の仲間たちから後ろ指をさされるような仕事を選ぶでしょう。背に腹は変えられなかったのかもしれません。それに、リスクを負った徴税人が、みんなあくどい取立てをしていたとは限りません。偏見と差別に苦しみながら、それでも生きていかなければなりません。

 イエス・キリストとの出会いはそんなときに起こりました。キリストは徴税所に座っているマタイに、「わたしに従いなさい」と声をかけます。マタイの家で食事も一緒にしました。周囲の敬虔なユダヤ人たちは、そんなキリストを黙って見過ごしません。しかし、主イエス・キリストはご自分を弁護して、いえ、自分のためではなく、マタイの家に集まった人たちを擁護して、こうおっしゃいました。
 「医者を必要とするのは、丈夫な人ではなく病人である。…わたしが来たのは、正しい人を招くためではなく、罪人を招くためである。」

 人は神の御前に皆罪人です。自分の罪深さは誰が指摘するまでもなく、自分が誰よりも良く知っているはずです。イエス・キリストは、自分の罪を知り、罪の重荷に苦しむ人のためにこそ来てくださったのです。偏見と差別に苦しんできたマタイこそ、自分を含めた人間の罪深さを誰よりも実感していたのでしょう。