2015年5月17日(日) 主イエスと出会った人々〜ヤイロの場合

 おはようございます。ラジオ牧師の山下正雄です。

 福音書の中には様々な人物が登場します。その中には、子供の重い病気のことで、気が気でない思いをした人たちが何人か登場します。
 きょう取り上げようとしている人物は、会堂長ヤイロの話です。会堂長というのは、ユダヤ人たちの教育と礼拝の施設である会堂の管理運営を任されていた最高責任者です。人望ある人でなければ、その務めを果たすことが難しいのは容易に想像がつきます。属していた共同体の中でヤイロは人望厚く地位のある人であったことは間違いありません。

 けれども、病気が人を襲うのは地位や身分とは関係ありません。しかもヤイロにとって悔しかったのは、自分自身が病気に襲われるのではなく、12歳になる娘が病気に襲われたことでした。言うまでもなく、娘のためなら、できることは何でも試したに違いありません。けれども一向に良くなるどころか、死も間近と思われるほどの病状です。居ても立ってもいられなかったのでしょう。自分でイエス・キリストのものとへ出向いて、娘を癒して欲しいと願い出ます。それほどまでに娘を思う父親の愛情と、また心配のあまり動揺を隠しきれない父親の姿をそこに見て取ることができます。

 ところが、やっとのことでキリストを我が家へお連れすることができると思ったのも束の間、道中で思わぬ邪魔者に出くわします。邪魔者と言っては失礼な話です。なぜなら、その邪魔者と見えた女性もまた、ヤイロの娘が生きて来たのとまったく同じ年月を、病のために苦しんできた人だからです。しかし、そうは言っても、ヤイロにとっては、急を要するこのときに、何もこの時でなくてもと思われたでしょう。しかし、この女性もまた癒されたい一心でイエス・キリストに近づいた一人です。しかも、だれ知れるとなく、そっとキリストの衣に触れただけでした。けれども、こともあろうに、イエス・キリストご自身がそのことに気がつき、だれが触れたのかと問いただします。

 ヤイロにとっては一刻を争うこの時に、よりによってイエス・キリストがわざわざ足をとめて、このひょっこりと現れたこの女性に長い時間かかわることになるとは、心外だったにちがいありません。「誰が触ったかなんて、そんなことどうだっていいじゃないか」…心の中できっとそう呟きながら、やきもきして事態を見ていたことでしょう。

 そうこうしているうちに、会堂長の家からやってきた人々がこう告げます。
 「お嬢さんは亡くなりました。もう、先生を煩わすには及ばないでしょう」
 ヤイロにとって、もっとも恐れていた結果です。両膝がくずれる思いがしたことでしょう。しかし、イエス・キリストはそれでもヤイロの家に向かいます、そしてついには、亡くなったヤイロの娘を命へと呼び覚まします。

 さて、ヤイロはいったいこの出来事から何を学び取ったでしょうか。もちろん、病を癒すばかりか、命さえも回復することができるキリストの力を改めて知ることができたでしょう。しかしまた、自分たちのことしか考える余裕がなかった自分に改めて気がつかされたかもしれません。
 ヤイロにとっては娘の命のことだけが心配でした。しかし、イエス・キリストにとっては出会うすべての人が、神によって造られた大切な一人でした。そのように一人一人を大切にしてくださるキリストと出会うことができたからこそ、ヤイロにとってこの日の出来事は特別だったのではないでしょうか。