2016年5月1日(日) 痛みの意味

 おはようございます。高知教会の小澤路華です。

「苦しみにあったことは わたしのために良いことです。
 わたしはあなたの掟を学ぶようになりました。」詩篇119篇71節
 私はこの告白を読むたびごとに「本当にそのとおりです」と神様に告白します。

 ある日ある教会の祈祷会に参加させて頂いた時、「痛みの意味」についてのお話がありました。痛みには身体的な苦痛と心理的な苦痛とがありますが、先天性無痛覚症という生まれつき体の痛みを感じない人がいるそうです。
 怒れば頭を床に叩きつける。ストーブに足をかけて神経までやられるほどのひどいやけどを負う。舌を何度も噛み切ってしまう。そんな方もいるようです。このような痛みが分からない人たちの特徴として、怒りやすい、自己中心的で冷淡という部分が見られ、そうなると人の痛みについても当然わからないという結果になりやすいのだそうです。痛みが分からないとは、いかに悲劇的であるのか。自分をもこんなにも痛みつけてしまう。

 そこである牧師先生のひとつの詩が紹介されました。
『病まなければ、捧げ得ない祈りがある。
病まなければ、信じ得ない奇跡がある。
病まなければ、聞き得ない御言葉がある。
病まなければ、近づき得ない聖所がある。
病まなければ、仰ぎ得ない御顔がある。
ああ、病まなければ、私は人間でさえもあり得ない。』

 私は今までの人生を振り返るとき、自分の歩む道の途中で様々な痛みや孤独、悲しみや苦しみが幾度もあったことを思い返します。
 世の中は痛みや悲しみにあふれていて、誰でもそのような試練を通らされますが、私は今になってそれらの数々の試練を思い起こす時、「苦しみにあったことはわたしにとって良いことです」と、心から告白することができます。
 日々の絶えない争い、親の病、家族の悲しい死、障害を持つ子供の親としての悩み、他にも数えればいくつも悩み、涙した出来事はありました。
 肯定できない出来事、後悔すること、今でも理由がわからないこともあります。それでもどんな時もどんな状況も、神様がご存知でないものはなく、また神様の許しなしに起きた出来事は何一つないという事実が私を慰めてくれ、心を癒やし、この御言葉のような告白へと導いてくれます。

 そしてそれらの痛みがあったからこそ、神様に祈り、御言葉に主の御思いを見出し、主の予想外の計らいと御業を体験し、神様の顔をただ仰ぎ見ることしかできなかった、という恵みを経験しました。
 それだから今は、それらの苦しみにあったことは必要な試練であったとはっきりと分かります。

 私は牧師の妻として、人と教会に仕える者となろうとしています。どの時代もそうであったように、今の時代にも心病む人、傷ついた人は多く、もし私が痛むことを知らなかったら、孤独と苦しみの淵で泣きながら祈ったことがなかったら、あるいは祈ることすら出来ずに悲しみもがいたことがなければ、どうして痛み悲しむ人の心に寄り添うことができるでしょう?

 もちろん、世の中には私よりもはるかに大きな苦しみを味わっている人、悲しんでいる人はたくさんいます。私の知らない試練も山のようにあるでしょう。それでも神様は、私が一人でも多くの人の心により添える者となれるように、私にあえて苦しみをお与えになり、懲らしめを下さったのだと信じます。

 私がいつも主の御前で謙遜に、少しでも人の痛みに寄り添える者となれますように、そして貧しい人に良い知らせを伝え、打ち砕かれた心を包み、捕らわれ人に自由と解放を告げ、嘆いている人を慰め、嘆きに代えて喜びの香油を、暗い心に代えて賛美の衣をまとわせる者として、神様が私を遣わしてくださるようにと日々祈ります。

 聖書の御言葉をもって終わりたいと思います。
『神は、あらゆる苦難に際してわたしたちを慰めてくださるので、わたしたちも神からいただくこの慰めによって、あらゆる苦難の中にある人々を慰めることができます。』コリントの信徒への手紙二、1章4節