2016年6月12日(日) 重荷を負っている人は来なさい

 おはようございます。岡本惠です。
 私が高校に入学した時、色々な運動クラブから誘われたことを思い出すんですね。何がいいか、と考えました。そして、これがおもしろそうだと思って決めたのは、矢を的に向かって射る、という弓道クラブでした。
 先輩たちが的に向かって矢を射る姿を見て、あのように当てられたら気持ちがいいだろうなあ、と思いました。すぐに、そのように弓を持って矢を射ることができる、と思ったのですが、それは大変な思い違いでした。最初は弓など持たせてもらえませんでした。弓を持たないで、弓を引く形を、体で覚えて行くのです。両手を上げ、弓を引く形に降ろしてきます。そして、矢を射る時に、弓の弦が右手から離れる、というまでの形を何度も何度も練習するんですね。
 そのように、矢を射るための練習ということでしたら、やがて弓を射ることができる、ということを思い浮かべて練習しますから、特に重荷にはならなかったんですね。

 しかし、弓を射るための形を覚えると同時に、体力づくりということがありました。校庭を何周も走らなければなりません。また、今は禁止されていますが、うさぎ飛びということもあったんですね。さらに、腕立て伏せをすることもあったんです。10回、20回、30回と、だんだん数が増えていきます。それになれると、当時の先輩は、それは無茶ですよ、と思われることをやらせようとするのです。
 おっ、こいつまだがんばるぞ、と言いながらですね、わたしの背中に腰を下ろしたのです。それでも、顔を真っ赤にしながら、1回、2回と続けます。でも、とても続くものではありません。先輩に押しつぶされる形でダウンしてしまいました。こうなると、これは体力づくりではなく、重荷ですよね。

 そのように、私たちの体の限界を越えると、どのようなことでも、重荷になってしまいます。それは、私たちの体だけのことではなくて、私たちの心にとってもそうではないでしょうか。
 私たちの心には、耐えられる限界というものがあるのです。そして、それを超えると、私たちの心は疲れ果て、どういうことでも重荷と感じてしまうんですね。

 私たちの毎日の生活の中で、心を疲れさせること、心に重荷となることは本当に多くあります。朝起きてから、夜寝るまで、私たちはどれほど多くのことに気を配っていることでしょうか。家庭では、育児から、食事や洗濯、そして、会社や学校、さらに私たち自身の健康にも心を配らなければなりません。そして、それぞれのことが、年齢に応じて変化していきます。

 このように、私たちは心にさまざまなストレスを感じさせる多くの事柄に囲まれて生活しているんですね。ですから、心が疲れ、どのような年齢であっても、心に重荷を感じる時があるのです。それでは、私たちはどのようにして、さまざまな心の疲れ、心の重荷から解放されるんでしょうか。

 聖書は、キリストこそが、疲れたり重荷を負っている私たちを解放してくださる、と語っているのです。
 マタイによる福音書の11章28節で、キリストは、このように言われました。「疲れた者、重荷を負う者は、だれでもわたしのもとに来なさい。休ませてあげよう。」
 心と体に疲れを覚えている人は、誰でもわたしのもとに来なさい。心に重荷を負って苦労している人も、わたしのもとに来なさい。
 キリストは、そのように私たちを招いておられます。

 キリストは、まことの人間であるお方です。ですから私たちの体の疲れも、心の疲れもお分かりになります。そしてこのお方は、まことの神でもあるお方ですね。ですから、あなたの心をすべての疲れと重荷から、解放することがおできになるのです。
 今日、あなたも、キリストのもとに来てください。そして、すべての疲れと重荷から、解放していただきましょう。