2016年10月9日(日) 背負ってくださる神

 おはようございます。南与力町教会牧師の坂尾連太郎です。今朝は旧約聖書のイザヤ書46章の御言葉に耳を傾けたいと思います。
 わたしたちの人生には時として苦しいことやつらいことが起こります。「なぜこのようなことが起こるのか」そう思うこともあります。

 旧約聖書に出てくるイスラエルの民も大きな苦難を経験しました。それはバビロンという帝国によって、自分たちの国が滅ぼされ、捕虜として連れ去られたということです。それはイスラエルの人々にとって、主なる神様への信仰が危機にさらされた時でもありました。
 主は自分たちを助けてくれなかった。主は自分たちのことを見捨てられたのだ。そのように思ったかもしれません。そしてバビロンの国では、多くの人々が偶像を拝んでいました。そのような状況の中で、イスラエルの人々の心も、偶像へと傾いていってしまったのだと思います。

 だからこそ、主なる神様は、イザヤという預言者を通して、イスラエルの人々に語りかけられます。イザヤ書46章5節〜6節。
「お前たちはわたしを誰に似せ/誰に等しくしようとするのか。誰にわたしをなぞらえ、似せようというのか。袋の金を注ぎ出し、銀を秤で量る者は/鋳物師を雇って、神を造らせ/これにひれ伏して拝む。」

 主なる神様は何者にも、どのような神々にも比べることができないお方です。そしてバビロンの人々が拝んでいる神々は職人によって銀や金から造られたものに過ぎません。そのようなものが、人間を救うことができるでしょうか。7節には次のようにあります。
 「彼らはそれを肩に担ぎ、背負って行き/据え付ければそれは立つが/そこから動くことはできない。それに助けを求めて叫んでも答えず/悩みから救ってはくれない」。

 人々は自分で造った神を背負って、ある場所に据え付けます。しかし、その神はそこから一歩も動くことができません。そのような神に助けを求めて叫んでも、苦しみや悩みから人を救うことはできないのです。
 では主なる神様はどのようなお方でしょうか。3節、4節
「わたしに聞け、ヤコブの家よ/イスラエルの家の残りの者よ、共に。あなたたちは生まれた時から負われ/胎を出た時から担われてきた。同じように、わたしはあなたたちの老いる日まで/白髪になるまで、背負って行こう。わたしはあなたたちを造った。わたしが担い、背負い、救い出す」

 主なる神様はイスラエルの人々に対し、「あなたたちは生まれたときから、お母さんのお腹を出たときから、わたしに背負われ、担われてきたのだ」と言われます。そして主は、「あなたたちが老いる日まで、髪の毛が白くなるときまで、わたしがあなたたちを背負い続ける」そう言ってくださいます。

 先ほど見たようにバビロンの偶像が人間によって背負われ、運ばれなければならないのとは正反対です。わたしたちが神様を背負うのではなく、神様がわたしたちを背負って下さるのです。そしてこの神様は、人間が造ったものではなく、むしろ私たち人間をお造りになったお方です。そして「あなたがたを造ったこのわたしが、あなたがたを担い、背負い、救い出す」。そう約束してくださるのです。

 辛いとき、苦しいとき、自分はひとりぼっちで歩いているのではないか、神様はわたしを見捨てられたのではないか、と思うことがあるかもしれません。しかし、本当はそうではないのです。神様はわたしたちが生まれたときから、白髪になるまで、どんなときも、わたしたちを担い、背負い続けてくださるお方です。 もちろん苦しいこともあるでしょう。しかし、神様は必ず今の苦しみから救い出して下さいます。そしてそのために、神様はわたしたちの救い主イエス・キリストを遣わして下さいました。わたしたちはこの主に信頼し、主に背負われながら、身をゆだねながら生きてゆきたいと思います。