2016年11月13日(日) 主の御心であれば

 おはようございます。さわやかにお目覚めでしょうか。今朝も、聖書の言葉をあなたの心にお届けしたいと思います。
 今朝の聖書の箇所には商人のことがでてきます。当時は、多くの都市の建設ブームでした。商人たちは、都市建設とともに、あの町この町と、そこに1年あるいは2年滞在し、一儲けをしようと情熱を燃やしていました。
 聖書では、「これこれの町に行って1年間滞在し、商売をして金もうけをしよう」となっています。全部動詞が未来形で記されています。あたかも地図を開いて用意周到な計画をし、これから先必ずそうなるという確信さえ感じさせる言葉です。

 しかし、そのような自信に満ちた確信を打ち砕くような言葉が続きます。「あなたがたには自分の命がどうなるか、明日のことは分からないのです。あなたがたは、わずかの間現れて、やがて消えて行く霧にすぎません」。
 彼らの傲慢を一挙に打ち砕く言葉です。いのちの問題が突きつけられています。いのちの問題は、私たちの無力を一番はっきりさせ、私たちの命が神の御手に握られていることを、私たちに悟らせます。

 新約聖書のルカによる福音書、12章にも「愚かな金持ちのたとえ」が出てきます。そこでも同じような真理が語られています。
 愚かな金持ちは大豊作に恵まれ、自分に言い聞かせます。「さあ、これから先何年も生きて行くだけの蓄えができたぞ。ひと休みして、食べたり飲んだりして楽しめ」。そのとき、神は言われます。「愚かな者よ、今夜、お前の命は取り上げられる。お前が用意した物は、いったいだれのものになるのか」。

 私たちも、知らず知らずのうちに、自分の命が、明日も明後日も、ずっと続くかのように思い込むものです。私たちの命が神の手にあることなど忘れてしまいます。自分で思いのままになるかのように計画を練り、自分の思いを遂げようとします。しかし、そこに大きな落とし穴があります。
 聖書は、愚かな者よ、あなた方には自分の命がどうなるか、明日のことは分からないのです、と諭しています。

 今朝の聖書の言葉を書き記したヤコブは、重要な言葉を語っています。「あなたがたは、『主の御心であれば、生き永らえて、あのことやこのことをしよう』と言うべきです」と語っています。私たちのすべてのことは、私たち自身の手にあって、思い通りにできることではありません。神の御心であれば、あのこと、このことをしよう、と考えるべきです。

 使徒パウロも、コリントの信徒への手紙一、4章19節で「しかし、主の御心であれば、すぐにでもあなたがたのところへ行こう」と言っています。「主の御心であれば」と記しています。「主の御心であれば」というこの言葉は、「ヤコブの条件」という言葉で知られています。
 私たちは、自分自身の人生の歩みの中で、この「ヤコブの条件」をいつも覚えるべきでしょう。

 もしかしたら、「神の御心であれば」ということは、何か他人任せ、成り行きまかせの消極的な生き方のように考えられるかもしれません。
 しかし、そうではありません。この生き方は積極的な生き方です。「神の御心であれば」とは、いつも神の御心を求めて生きる生き方です。聖書の言葉に導かれ、私たちの人生全体においても、私たちの日々の生活においても、神の御心は何か、神の前に何をなすべきかを問い求めつつ生きる生き方です。

 「主の御心であれば」という、「ヤコブの条件」に従って生きる生き方は、神の前に責任のある生き方、最善を尽くして神の栄光のために生きる生き方です。
 これが、聖書が示している、人間の生き方なのです。