2017年1月15日(日) 一人ひとりに手をおいて

 おはようございます。高知教会の小澤寿輔です。
 年が明けて3週間がたちますが、お風邪など引いていないでしょうか。病気を患っている方はいらっしゃらないでしょうか。

 もう随分前のことになりますが、身体の調子が悪くてお医者さんに診ていただいたことがありました。長い間待たされて、やっと自分の診察の番が来て、先生に自分の症状を話し始めると、たった1点2点質問するだけで「はい、あなたも皆と同じ流感ですね」と診断されて、処方薬の説明をされて、ほんの数分のうちにすべてが終わってしまいました。「えッ、もうお終い?」「まだ何も話していないのに!」という気持ちになりました。

 決められた時間内に多くの患者を診なければならないので仕方ないですね。一人でも多くの患者が早く治療を受けられるように最大の努力をしてくださっています。でも、病人というのは、自分の病気を先生によく診てもらいたい、知ってもらいたい、という願いがあるものなのですよね。

 病気の人は自分の病気について色々と悩んでいます。先生にそれを聞いて欲しいし、自分の問題をよく理解していただきたいのです。
 多くの人たちは、病気以外にも悩んでいることが沢山あります。特別な自分の家庭の事情や、人間関係、仕事の上での問題、色々なことを全部抱えて悩んでいるのです。人は自分の心の訴えを聞いてもらいたいものなのです。自分も皆もいっぺんに同じように扱われては、不満が残ってしまうのです。それこそが私たち人間の姿なのです。

 そういう私たちのニーズに応えてくださる方がおられます。
 今朝の御言葉に耳を傾けましょう。「日が暮れると、いろいろな病気で苦しむ者を抱えている人が皆、病人たちをイエスのもとに連れて来た。イエスはその一人一人に手を置いていやされた。」(ルカによる福音書4章40節の御言葉です。)

 日が暮れると、人々が明日の朝を待つことなく、続々と病人をイエスのもとに連れて来ました。その沢山の連れて来られた病人を前にして、「イエスはその一人一人に手を置いていやされた」とあります。「はい、そこの人たち一列に並んで、せーの、えい!」と言って、効率良くいちどきに癒されたのではなくて、「その一人一人に手を置いていやされた」のです。

 たとえ私たちが、神の多くの被造物の中で、とっても小さな存在であったとしても、たとえどんなに沢山いる中の一人であったとしても、主イエスは、私たち一人ひとりに関心を持って、私たち一人ひとりと向き合い、私たちの心の叫びを聞き、私たちの独特のニーズを詳細に知ってくださるのです。
 そして、そのニーズに合わせて「一人ひとりに手を置いて」癒しとともに、神の祝福、恵みを注いでくださるのです。

 主イエスに語りかけ、自分のニーズを知っていただき、理解して下さったことが分かるとき、たとえ病の中にあっても「私は強い、私は癒された」と、そのように感謝をもって告白できるのではないでしょうか。
 今日、身体と心の痛みに苦しんでおられるあなた、主イエスに御手を置いていただき、神の祝福と恵みを求めて、祈ってみませんか。