2017年4月16日(日) イエス・キリストのよみがえり

 おはようございます。ラジオ牧師の山下正雄です。
 きょうはキリスト教会にとって最も大切な日、キリストの復活を祝う記念日です。
 イエス・キリストが、墓の中からよみがえられた、と聞けば、誰もがそんなことはあり得ないと思うことでしょう。当然のことだと思います。そのようなことは、昔も今も、経験できないことだからです。そして、あり得ないことだからこそ、そこに信仰が求められているのだと思います。

 もし、死者のよみがえりが、普通の出来事で、昔からあっちでもこっちでも起こっていることであるとするならば、それは果たして信じるに値することでしょうか。ちょっと考えてみてください。昼寝をしていた人が、目が覚めて起き上がりました。こんなことは、世界中どこでもあることです。この話が嘘だと、誰も疑いません。しかし、その話には何のインパクトもメッセージもありません。ありうる話ですが、人生にとって意味のある福音ではありません。ただの日常の光景を描いただけの話です。

 しかし、キリストの復活は、人間誰もが経験する日常の光景ではありません。信じがたい出来事です。
 聖書自身の中にも、復活などあり得ないと確信しているサドカイ派のユダヤ人のことや(マタイ22:23)、物珍しい話には興味と関心とを持ちながら、死人のよみがえりの話題になると、そっぽを向いてしまうギリシア人哲学者たちのことが描かれています(使徒言行録17:18、32)。何を隠そう、当のキリストの弟子たちでさえ、キリストがよみがえったということを聞いて、すぐには信じなかったほどです(ルカ24:11、ヨハネ20:25)。

 マルコによる福音書に至っては、復活の記事は、こう結ばれています。
 「婦人たちは墓を出て逃げ去った。震え上がり、正気を失っていた。そして、だれにも何も言わなかった。恐ろしかったからである。」(マルコ16:8)
 空っぽの墓を目撃した婦人たちにとって、この日の出来事は、正気を失うほどの恐ろしさでしかなかったのです。

 しかし、あり得ないことだったからこそ、初めは恐怖としか映らなかったこの出来事も、そこに込められたメッセージを知ったとき、弟子たちはもはや黙っていることはできないほどの喜びに変えられました。その衝撃的な喜びが、どれほどのものであったのか、次の事実がそれを物語っています。

 弟子たちは最初、イエス・キリストを十字架にかけたユダヤ人たちを恐れて、家に鍵をかけて逃げ隠れするほどでした。聖書はその事実を語っています。しかしまた、それとは全く対照的に、エルサレムの神殿で、弟子たちはユダヤ人を恐れることなく、キリストの福音を宣べ伝えています。自分の身に迫る危険を少しも恐れないで、大胆に語る弟子たちの姿です。
 この変化こそ、キリストの復活が弟子たちに与えた大きな喜びがもたらした結果です。

 人間にとって「死」とは、誰にもやがては訪れるものです。誰にでも訪れるものであるために、死は受容するしかないものと、誰もが諦めています。しかし、聖書の主張はそうではありません。死はそもそも人間にとって正常なことではないのです。神との関係を破たんさせた結果訪れる、異常な出来事だというのが聖書の主張です。

 キリスト教にとって死の問題は、まさに、神との関係そのものです。神との正しい祝福された関係への回復こそ、キリストの復活の出来事が語っている重大なメッセージなのです。


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